朝倉義景/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

朝倉義景が2度に渡って信長包囲網を失敗したのはなぜだ?【戦国朝倉記】

織田信長の天下統一ストーリーは抜群に面白い。

何度も大ピンチに陥っては、その都度、死地から脱出し、ドラマ以上に驚きの展開で次のステージへと進んでいく――。

その際、主役の織田家を成長させる、最も【ちょうどエエ脇役】が朝倉義景ではないでしょうか?

マンガや映像作品などで描かれがちな特徴を挙げてみると、

・顔が意地悪そう

・名門なのを鼻にかけている

・弱国ではない、されど強くもない

・なんでも部下にやらせようとする

・とにかく、なんかムカつく

とまぁ『こいつ倒したい!』要素がてんこ盛りになっていて、しかも、その登場が信長の京都デビュー直後!という奇跡のようなタイミングなのですから、まるで信長出世物語のために生まれてきたような御方です。

そこで!

本稿では、信長から見た朝倉義景ではなく、義景から見た義景――普段は脇役の彼に注目して、その生涯を追ってみたいと思います。

意外な義景像が浮かび上がってくるかもしれません。

 

1533年生まれの朝倉義景 父は名将・孝景

朝倉義景は天文二年(1533年)、朝倉氏十代当主・朝倉孝景の息子として生まれました。

母は広徳院(光徳院)という女性で、若狭武田氏の出身とされています。

戦国大名・武将によくあることで、幼少期の逸話はほとんど不明。
足跡がわかるのは天文十七年(1548年)、父・孝景の死去により家督を相続した頃からです。

当時15歳のため、従曾祖父の朝倉宗滴(教景)に政務・軍事を補佐され、しばらくはこの有能すぎる家老に支えられます。

朝倉宗滴は戦国越前のチート武将!存在感ありすぎて朝倉家滅亡に繋がる?

歴 ...

続きを見る

当初は「延景」と名乗っていましたが、天文二十一年(1552年)に室町幕府十三代将軍・足利義輝から左衛門督と「義」の字を賜わって、「義景」に名を改めました。

この
”足利将軍家の通字である「義」”
及び
”一等官である左衛門督を与えられた”
ことは、歴代の朝倉家当主の中では異例のことです。

 

越前には多くの公家が避難していた

異例の通字を与えられたのは、以下のような理由があったからと考えられています。

なぜ「義」の字が与えられた?

孝景が室町幕府の御供衆、相伴衆に列していた

義景の正室に、管領・細川晴元の娘を迎えた

幕府側にとっても朝倉家の力が必要だった

御供衆や相伴衆というのは、将軍がどこかへ出かけるときにお供をしていく人のことです。
管領家や足利氏の血縁者など、将軍に近い人物が任命されることがほとんどでした。

では、どうして孝景がその座につけたのか?
というと、近畿での戦乱から逃れようと、多くの公家が越前へ避難してきていたからです。

孝景の時代の越前は(戦国時代としては)比較的平穏、かつ京都からも行きやすかったことが主な理由でした。

孝景は膝下に逃げ込んできた公家たちを介して、幕府だけでなく朝廷とのパイプを持ち、社会的地位を高めることに成功。
これが次代の孝景にも引き継がれた結果が、「義」の字と左衛門督というわけです。

また、若い頃の義景は、朝倉宗滴という名臣に恵まれたことも非常に大きな幸運でした。

宗滴は、先述の通り朝倉氏の親族で、軍事にも政治にも非常に高い能力を発揮した人物です。

義景が当主になった後、宗滴存命中の越前は、他国の人間や公家からも非常に評判が高く、羨ましがられるような国でした。

しかし、宗滴に頼ったことが仇になってしまいます。
弘治元年(1555年)に宗滴が亡くなったのです。

 

親族衆の頼りはいとこの景鏡

義景が自ら政務を執るようになると、少しずつ歯車が狂い始めました。

宗滴が政治・軍事・外交など、重要な仕事をほぼ全てになっていたがために、それらを引き継げる人材がおらず、小さな問題が後を引くようになるのです。

また、義景にきょうだいがいなかったことも、立場が弱まる原因になりました。
姉妹がいれば政略結婚に利用できますし、兄弟も心強い戦力になりえます。

兄や弟の場合は、家督争いや家中分裂の可能性も出てきますが……。

いとこの朝倉景鏡(かげあきら)など、少し血縁の離れた親族はいたものの、やはり兄弟姉妹の存在は大きい。

更に悪いことに、息子にも恵まれませんでした。

最初の正室・細川氏は女子を産んだものの、産後の肥立ちが悪かったようで間もなく死去。
二人めの正室として迎えた近衛稙家の娘は、美女だったものの子供ができず、実家に帰されています。

その後は朝倉氏の重臣・鞍谷副知の娘とされる小宰相を寵愛しました。

彼女は永禄四年(1561年)に義景にとって初めての息子・阿君丸(くまぎみまる)を産みましたが、本人は間もなく病死。
阿君丸も永禄十一年(1568年)に幼くして亡くなり、義景はすっかり気落ちしてしまいます。

すると義景は、二人目の側室とあんる斎藤兵部少輔の娘・小少将に溺れ、いわゆる酒池肉林に耽っていたともされています。

彼女との間には、元亀元年(1570年)に愛王丸という息子が生まれましたが……彼については後述しましょう。

義景の不運

子やきょうだいに恵まれなかった

永禄六年(1563年)以降は、若狭守護武田義統が統率力を失っていたため、義景が軍事的に介入し、若狭での影響力を強めていきます。
また、永禄七年(1564年)には加賀を攻めていますが、領土的に大きな成功は治めていません。

義景、そして朝倉氏の運命が大きく変わることになるのは、永禄八年(1565年)からです。

永禄の変】が起きたのです。

 

義昭の越前入りが運命を大きく変えていく

将軍・足利義輝が暗殺されたこの事件。
義景は武田義統からの書状で知りました。

事件が起きたのが5月19日、書状が5月20日ですので、かなり早い段階です。

義輝の叔父にあたる大覚寺義俊が上杉謙信に充てた書状では、

「義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が奈良を脱出して近江国に移ることになったのは、朝倉義景の干渉による」

とされています。

これが事実ならば、義景はおそらく事件を知らされてすぐに、将軍方の家臣と連絡をとったのでしょう。
義昭を救出した和田惟政細川藤孝あるいは三淵藤英らのうち、少なくとも一人と繋がっていたと見て良さそうです。

三淵藤英が信長と光秀に処刑されるとき~麒麟がくるで谷原章介演じる名門武将

三 ...

続きを見る

義昭は近江で還俗し、当初は六角氏の助力を受けて上洛しようとしていました。

しかし、翌永禄九年(1566年)になると、六角氏は永禄の変で義輝を殺した三好三人衆、及びそれを黙認していたと思われる松永久秀と結び、義昭の立場や生命が危うくなります。

松永久秀は爆死に非ず!信長を二度裏切った男は梟雄どころか忠義の智将か

2 ...

続きを見る

義昭は、次に若狭武田氏を頼りましたが、先述の通りここは既に家中すらまとめきれていない状態。
そこで、比較的近隣で落ち着いている越前と朝倉氏を頼ることになったのです。

義景は、いとこの朝倉景鏡を使者として遣わし、義昭を歓迎しました。

当初、義景と義昭は互いに協力し、うまくやっていこうとしていた形跡があります。

例えば永禄十年(1567年)に朝倉氏の家臣の一人・堀江景忠が加賀一向一揆方につき、謀反を起こしたときのこと。

この謀反自体はすぐに収まりがついたものの、加賀一向一揆そのものは100年自治をしてきたような強固な団体です。
元々、先代・朝倉孝景からの因縁もありました。

加賀一向一揆は柴田勝家が平定!なぜ100年間も続いたのか【北陸戦国譚】

天 ...

続きを見る

これに対し、義昭が仲介に入ることで、無事に和解が成立しています。
義景の娘と、本願寺顕如の長男・本願寺教如の婚約もその一環で結ばれました。

自分の立場と力を証明することができた義昭は、次に元服をして正式に将軍候補になろうとします。

義昭は既に30代に入っていましたが、長く仏門に入っていたこと、永禄の変以降の立場の不安定さなどから、これまで元服していませんでした。
義景の元に身を寄せることによって、ようやく世間的な大人の仲間入りをすることができたのです。

永禄十一年(1568年)4月、関白・二条晴良を下向させて元服式をしています。

義景は同時期に、管領代の地位を与えられました。
義昭が発する御内書に義景が副状をつけたこともあり、当時の義景と義昭の関係はおおむね良好だったことがうかがえます。

 

上洛に積極的になれない理由が二つあった

こうなると、義昭としては上洛戦に期待したいところ。
義景だけでなく、朝倉氏の一族とも交流し、上洛を促すようになります。

しかし、朝倉氏としては上洛に積極的になれない理由が二つありました。

一つは、「そもそも上洛戦は現実的なものか?」という疑問です。

義昭は十三代将軍・足利義輝の弟であり、十二代将軍・足利義晴の息子ですから、将軍位を継ぐ正当な理由はあります。

しかし、当時の京都・近畿周辺は三好三人衆と松永久秀らによって占拠されているような状態。
上洛戦をするならば、当然彼らとの衝突は避けられません。

足利義昭61年の生涯をスッキリ解説!バカ殿?それとも実は頭脳派?

【 ...

続きを見る

本拠が雪深い越前であるが故に、朝倉氏が長期遠征を行うことができる時期は限られています。
もしも上洛戦の最中に冬を迎えてしまえば、国に戻れず右往左往する中、背後の三好・松永軍から手痛い攻撃を受けるかもしれません。

もう一つは、このタイミングで義景が愛息・阿君丸(くまぎみまる)を亡くしていたことです。

永禄十一年(1568年)6月のことで、義昭の元服からさほど日が経っていない頃のことでした。
一般的に、阿君丸の死をきっかけに、義景は政務や軍事への意欲を失っていったといわれています。亡くなって間もなくならば、なおさらのことだったでしょう。

とはいえ、義昭としてもあまり悠長にはしていられません。

永禄十一年(1568年)2月には、三好方が担ぎ上げた足利義栄(よしひで)が十四代将軍として将軍宣下を受けていたからです。
義栄は義昭のいとこですので、血筋としては足利家の直系から遠くなるのですが……やはり、実力者の後ろ盾があると話が進みやすいですね。

ここで明智光秀が織田信長を頼るよう進言したといわれています。

光秀の前半生については謎も多いのですが、この点から「朝倉家臣を経て織田家に仕えた」という説が根強いですね。

 

浅井と共に織田軍を挟撃するも、とにかく速い信長の動き

義昭はこれを受けて岐阜に移り、信長は妹の嫁ぎ先でもあった浅井長政などの協力も受けて、永禄十一年(1568年)9月に見事上洛戦を敢行。
庇護者を変えただけで、義昭の望みはあっさり叶ってしまったのでした。

信長と義昭 上洛戦の一部始終!戦国初心者にも超わかる信長公記52話

今 ...

続きを見る

おそらく、このことは義景の自尊心をいたく傷つけたと思われます。

信長は上洛後、諸大名や武将を上洛させるため、義昭の名で文書を出しているのですが、義景はこれを無視。
【朝倉氏vs織田氏】という争いへ発展していきます。

話が前後しますが、義昭が織田家へ到着した頃、義景は「若狭武田氏の内紛を収めるため」として、若狭の諸城を攻めていました。

若年の当主・武田元明を「保護」という名目で一乗谷に連れ去り、若狭と武田氏を事実上乗っ取っています。

武田元明は『麒麟がくる』で重要ポジを担う? 戦国期に滅びたもう1つの武田氏

乱 ...

続きを見る

しかし、当然ながら武田家臣の中には、義景の支配を拒む者もいました。

粟屋勝久もその一人。
勝久は元亀元年(1570年)、信長が徳川家康と共に越前へ攻め込んできたとき、織田方に協力しています。

信長は、朝倉方の天筒山城、金ヶ崎城を攻め落とすなど、破竹の勢いで進撃しました。

しかし、そこから朝倉の本拠地・一乗谷まで一気に攻め落とすのは、途中、山間部を越えていかねばならず、信長がどのような戦略を考えていたかはわかりません。

なぜなら浅井家が突如として織田家を裏切り、攻撃どころではなくなってしまったからです。

※左下の赤い拠点が天筒山城と金ヶ崎城で、右上が一乗谷城

浅井長政は織田軍の背後を衝こうとして、軍を北上させました。

一方、その報を聞いた信長は一瞬、躊躇するものの、撤退を即断。
今日では「金ヶ崎の退き口」とか「金ヶ崎の戦い」と呼ばれている撤退戦が始まります。

信長最大のピンチ「金ヶ崎の退き口」生還できたのは、あの久秀のお陰!?

元 ...

続きを見る

撤退戦で大切なのは、一番うしろで敵を引きつける役の殿(しんがり)です。

その大役に選ばれたのが豊臣秀吉であり、明智光秀であり、彼らが朝倉軍と戦いながらジリジリと京都を目指す間に、信長は別ルートで一足先に京都への帰還に成功しました。

このとき、義景も出兵しておりましたが、途中で引き返していました。
代わりに、織田・徳川軍の追撃は景鏡に任せ、そして織田軍の主要舞台を取り逃がしております。

実はこの後に行われた、同年6月
姉川の戦い(織田・徳川vs浅井・朝倉)
も、朝倉軍の総大将は義景ではなく、景鏡でした。

姉川の戦いが雌雄を決する大戦にならなかった意外な理由【戦国野戦譚】

戦 ...

続きを見る

姉川の戦いは浅井・朝倉軍の敗北に終わりました。

しかし、敵も味方も決定的なダメージまでには至らず、ここから両氏と織田家との戦いは本格化。
次なる一手を先に仕掛けたのは、浅井・朝倉連合軍からでした。それは……。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-浅井・朝倉家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2020 All Rights Reserved.