朝倉義景

朝倉義景/wikipediaより引用

浅井・朝倉家

朝倉義景は二度も信長を包囲しながらなぜ逆に滅ぼされてしまったのか

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義昭の救出から関わっていた?

将軍・足利義輝が暗殺されたこの事件。義景は武田義統からの書状で知りました。

事件が起きたのが5月19日、書状が5月20日ですので、かなり早い段階です。

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義輝の叔父にあたる大覚寺義俊が上杉謙信に充てた書状では、

「義輝の弟・覚慶(後の足利義昭)が奈良を脱出して近江国に移ることになったのは、朝倉義景の干渉による」

とされています。

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これが事実ならば、義景はおそらく事件を知らされてすぐに、将軍方の家臣と連絡をとったのでしょう。

足利義昭を救出した和田惟政細川藤孝あるいは三淵藤英らのうち、少なくとも一人と繋がっていたと見て良さそうです。

義昭は近江で還俗し、当初は六角氏の助力を受けて上洛しようとしていました。

 


義昭の越前入りが運命を大きく変える

しかし、翌永禄九年(1566年)になると、六角氏は永禄の変で義輝を殺した三好三人衆、及びそれを黙認していたと思われる松永久秀と結び、義昭の立場や生命が危うくなります。

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義昭は、次に若狭武田氏を頼りましたが、先述の通りここは既に家中すらまとめきれていない状態。そこで、比較的近隣で落ち着いている越前と朝倉氏を頼ることになったのです。

義景は、いとこの朝倉景鏡を使者として遣わし、義昭を歓迎しました。

当初、義景と義昭は互いに協力し、うまくやっていこうとしていた形跡があります。

例えば永禄十年(1567年)に朝倉氏の家臣の一人・堀江景忠が加賀一向一揆方につき、謀反を起こしたときのこと。

この謀反自体はすぐに収まりがついたものの、加賀一向一揆そのものは100年自治をしてきたような強固な団体です。元々、先代・朝倉孝景からの因縁もありました。

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これに対し、義昭が仲介に入ることで、無事に和解が成立しています。義景の娘と、本願寺顕如の長男・本願寺教如の婚約もその一環で結ばれました。

自分の立場と力を証明することができた義昭は、次に元服をして正式に将軍候補になろうとします。

義昭は既に30代に入っていましたが、長く仏門に入っていたこと、永禄の変以降の立場の不安定さなどから、これまで元服していませんでした。

義景の元に身を寄せることによって、ようやく世間的な大人の仲間入りをすることができたのです。

永禄十一年(1568年)4月、関白・二条晴良を下向させて元服式をしています。

義景は同時期に、管領代の地位を与えられました。義昭が発する御内書に義景が副状をつけたこともあり、当時の義景と義昭の関係はおおむね良好だったことがうかがえます。

 

上洛に積極的になれない理由が二つ

こうなると、義昭としては上洛戦に期待したいところ。義景だけでなく、朝倉氏の一族とも交流し、上洛を促すようになります。

しかし、朝倉氏としては上洛に積極的になれない理由が二つありました。

一つは

「そもそも上洛戦は現実的なものか?」

という疑問です。

義昭は十三代将軍・足利義輝の弟であり、十二代将軍・足利義晴の息子ですから、将軍位を継ぐ正当な理由はあります。

しかし、当時の京都・近畿周辺は三好三人衆と松永久秀らによって占拠されているような状態。上洛戦をするならば、当然彼らとの衝突は避けられません。

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本拠が雪深い越前であるが故に、朝倉氏が長期遠征を行うことができる時期は限られています。

もしも上洛戦の最中に冬を迎えてしまえば、国に戻れず右往左往する中、背後の三好・松永軍から手痛い攻撃を受けるかもしれません。

もう一つは、このタイミングで

愛息・阿君丸(くまぎみまる)を亡くしていた

ことです。

永禄十一年(1568年)6月のことで、義昭の元服からさほど日が経っていない頃のことでした。

一般的に、阿君丸の死をきっかけに、義景は政務や軍事への意欲を失っていったといわれています。亡くなって間もなくならば、なおさらのことだったでしょう。

とはいえ、義昭としてもあまり悠長にはしていられません。

永禄十一年(1568年)2月には、三好方が担ぎ上げた足利義栄(よしひで)が十四代将軍として将軍宣下を受けていたからです。

義栄は義昭のいとこですので、血筋としては足利家の直系から遠くなるのですが……やはり、実力者の後ろ盾があると話が進みやすいですね。

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ここで明智光秀織田信長を頼るよう進言したといわれています。

光秀の前半生については謎も多いのですが、この点から「朝倉家臣を経て織田家に仕えた」という説が根強いですね。そして……。

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