高山右近

高山右近/wikipediaより引用

宣教師・切支丹

戦国武将でキリシタンの高山右近はなぜマニラに没した?63年の生涯

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高山家の当主になったら村重が謀反

その後、トーチャンの友照が「キリスト教最高!」(超訳)という政策を掲げ、領内の寺社が破壊されたりキリスト教以外の聖職者が迫害されたり、あまり穏やかでないことも始めてしまいます。

一神教の全てが悪いわけではありませんが、この極端さがいただけませんよね。

このころ右近は高山家の当主になります。

そして間もなく大事件が……。

荒木村重が突如、信長に反乱を起こしたのです。

村重は、一度は信長からの使者に従って謀反を取りやめようとしました。

が、安土城に向かう途中で家臣から「信長がそんなことで許すはずないじゃないですか」とそそのかされて引き返していますので、決意は固かったようです。

これには右近も驚き、新たに人質を差し出してまで村重に説得を試みましたが聞き入れてもらえません。

もはや話は通じまい――。

そう判断した信長は、ついに攻撃を決断。

高山家がいた高槻城は戦略上重要な地点だったため、まずここへやってきました。

 

信長の怒りを増さず人質を助ける方法

信長は、直ちに高山右近への攻撃には取り掛かりませんでした。

旧知のイタリア人宣教師オルガンティノたち、つまりキリスト教関係者を使って右近の説得を試みているのです。

摂津どころか京都にいた宣教師達を全員集めたといいますから、できるだけ殺さずに事を収めたいと思っていたのではないでしょうか。

とはいえ「できなかったらどうなるかわかってんだろうな☆」(超訳)なことも言っています。

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以前から右近を見知っていたオルガンティノは、右近が「名誉のためにも人情としても人質を見捨てられないだろう」と理解していました。

それも含めてよく考えるよう伝えるのが精一杯で、結局彼の力だけでは事の解決に至りません。

高山家の中でも、徹底抗戦派と降伏派で真っ二つに割れていたからです。

そこで右近は、信長の怒りを増さずに人質を助ける方法を考え出します。

たった一人、紙衣(和紙の着物・下着によく使われていた)に丸腰で信長の下へ向かったのです。

これなら城と兵ごと信長の元へ行ったわけではないので村重を裏切ったことにはならず、信長へは反抗する意思がないことを示せるということになります。頭いいなあ。

信長は右近の意思を汲み取り喜ぶと、そのとき着ていた服や馬、そして改めて高槻城主の地位をやっています。

手こずらせた割には人的被害がなかったのがよかったのでしょう。

「お古の服なんて嬉しくないんでは?」と思われた方もいらっしゃるでしょうが、当時エライ人が着ていた服をもらうというのは名誉なことでした。

旧暦11月=だいたい新暦12月のことですから、「それだけじゃ寒いだろ、とりあえずこれでも着とけ(´・ω・`)つ」というちょっとした優しさもあったかもしれませんね。

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