「楊枝を手にとると、まず、これを手のひらの半分ほどの長さに折る。
これは、長い楊枝をそのまま使う事は無礼だとされる礼義作法からだ。
続けて菓子を食する前に歯に楊枝をあてるのに、左手を唇の上にあてその下でおこなう」
上記の文章は【茶席で茶菓子を頂くときの作法】について振れた戦国時代の書物から抜粋した文章です。
誰が書いた、なんという書物か?
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教会には茶室がないとね
答えは、イエズス会の宣教師ジョアン・ロドリゲスが著した『日本教会史』中に見えるものです。
ジョアンは、文法の教科書『日本語文典』を著したことで知られ、当時、来日してキリスト教の布教にあたっておりました(1633年8月1日に亡くなっています)。
戦国時代の日本を綴った外国人の書物としては、やはり宣教師ルイス・フロイスの著作『日本史』が有名でしょう。
※以下はフロイスの事績をまとめた記事です
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その中には、織田信長の居城・安土城下の教会堂に
「高価で見事に作られた茶の湯の場所を備えた」
とあります。
安土城下の教会堂に限らず、当時イエズス会が建設した教会の多くに茶室が併設されていました。
イエズス会は、大名をはじめ各地の有力者との交わりに
「茶の湯の場が有効」
と考え利用していたのです。
では、誰がそれを始めたのか?
キリシタン大名の宗麟に教わった茶の湯と日本文化
教会堂への茶室の導入は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノによって始められたものです。
ヴァリニャーノは天正7年(1579)7月、イエズス会布教地の監督を行なう巡察師として来日。
この年の8月に豊後国の臼杵(大分県)で布教のための会議を主催して、その後、半年を臼杵で過ごしました。
その間、豊後のキリシタン大名・大友宗麟と交わり、和歌・絵画・書・工芸など日本文化にふれる経験をします。
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茶室での接待も受け、茶を支える深遠な思想について宗麟との交わりから知ることになるのです。
こうして形成された彼の日本観が、教会堂への茶室の建設につながっていきました。
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