東西の大戦が日本の中央で勃発する頃、九州でも暴れまわっている男がいた。
そう、先の大河ドラマでもお馴染み「黒田官兵衛」その人である。
官兵衛は、息子・長政を戦地へ送る一方で、自らは中津城に貯めていた資金を駆使して兵を徴収。約1万とも言われる即席軍を作り上げると、西軍に与する大友軍を撃破するなど、次々に西の城を落としていった。
すわ黒田官兵衛の天下取りか?と(後世では)囁かれる中、関が原の一報が送り届けられるのであった――。
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しゃーないから宗茂の柳川城でも攻めまっか……
◆秀吉の右腕として竹中半兵衛と共に「両兵衛」として知られた黒田官兵衛さん。久々の登場ですw
地元九州でさんざん暴れまわっておりましたが、あっという間に関が原は終了。
西軍となって地元・柳川城に戻ってきた立花宗茂へ攻め込みます。
オマエの空いた手はどないしとったんや!
◆息子の黒田長政は関ヶ原で大活躍!
事前に小早川秀秋や吉川広家の調略を成功させたと言われ、小早川が最初から東軍だった――という見方が最近では有力です。
こうした関ヶ原での功績を褒められた長政が家康と握手をしたとき、官兵衛が「なぜ空いてる手で家康を殺さなかった!」という逸話はあまりに有名ですが、さすがに「ありえない」と目されております(仮に家康が死んでも、この時点で黒田家の天下統一とか無理ゲーすぎますので、官兵衛がそこまで思惑を広げるワケがないと……)。
ただ、エピソードとしてはオモシロ過ぎるので漫画ではアリということで♪
立花宗茂の武運、ついに尽きる!?
◆黒田官兵衛が柳川城の支城を落とし、同じく加藤清正も攻め込むと、両者の懸命の説得により立花宗茂は降伏しました。
「島津の退き口」で宗茂に助けられた島津義弘は、これを助けようと兵を出すも、一歩間に合わず。
今度は、東軍側が島津に対してプレッシャーをかけるターンとなるのでありました。
島津との交渉が怖いか? 井伊直政、出て来いやー!
◆関ヶ原で半ばなし崩し的に西軍へ付くこととなった島津義弘は、帰国後、御家存続のための交渉役を請け負いました。
もともと豊臣政権時代から、島津と秀吉(三成)のつなぎ役をしていた義弘でしたので、こうした折衝には慣れていたのでしょう。
実に、自ら鉄砲傷を負わせた井伊直政をその相手に指名。
家康としては、とにかく島津をぶっ潰したい!と願っていた場面だったでしょうが、結果的に島津家は残ります。
それは、島津義弘の西軍参加はあくまで個人行動であり(そもそも少数の兵しか参加していない)、島津本家としては参加していない――という当主・義久の主張が通ったものでありました。
では、なぜ島津は参加していなかったのか?
実はこのころ島津家は「庄内の乱」という内輪揉めのために家内のゴタゴタがはんぱなく、更には加藤清正も絡んでいたため、両者共に関ヶ原へは参加できていないのです。
更に! 井伊直政は、島津の退き口で負った鉄砲傷がもとで亡くなったとされております。鉄砲の弾による鉛中毒ではないか?という見方もありまして。その考察記事が以下となります。
戦国時代の火縄銃で撃たれたらどんな死を迎える?ガス壊疽も鉛中毒も怖すぎて
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次週へ続く
漫画・アニィたかはし
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