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【東北戦国譚】葛西・大崎一揆で政宗が色々やらかす! 氏郷はもう限界?

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戦国時代の合戦というと、だいたいは武将の戦略や武功、その後の土地(所領)がどちらのものになったか、といった直接的な話が多くなりますよね。

しかし、時代背景と絡めて考えてみると、政治的な動きもなかなかのウェイトになることがあります。
代表的なのはやはり、関が原や大坂の役でしょうか。

今回はもう少し規模が小さいながらに、当時の情勢がうかがえる東北の戦に注目です。

天正十八年(1590年)11月24日は、葛西・大崎一揆で、佐沼城の木村吉清・清久親子が救出された日です。

何やら馴染みのない地名や名前かもしれませんが、戦国末期の政治的駆け引きがうかがえる一件でもあります。

というのも、関係者が豊臣秀吉を始め、この時期のビッグネームばかりだからです。
まずは事の発端から見ていきましょう。

 

北条氏滅亡の後に改易となった葛西家と大崎家

葛西家と大崎家は、ともに現在の宮城県北部~岩手県南部の戦国大名です。

葛西家は鎌倉時代に、大崎家は室町時代に、この地に縁付いた歴史あるお家柄。
特に大崎家は、代々「羽州探題」という知事のような役割を担っており、葛西・伊達・最上などと併せて東北大名のトップとも言える存在だったのです。

しかし、戦国時代に突入すると大崎家の力が弱まり、東北も群雄割拠状態に突入します。

特に伊達政宗の曽祖父・伊達稙宗(たねむね)の時代には、葛西・大崎ともに伊達家に従うようになっていました。

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そんなわけで、秀吉が「小田原の後北条を滅ぼすから、全国の大名はワシに味方するように。来ないとどうなるかわかってるよな^^」(超略)という命令を出したとき、葛西家も大崎家も独断で兵を出すことはできませんでした。
伊達家でも秀吉に味方すべきかどうか意見が割れ、ギリギリまで政宗が出発できなかったからです。

政宗はすったもんだの末に小田原へ出向き、詫びを入れて何とかなったものの、葛西・大崎両家は不参加のまま改易を食らうことに。
新たに木村吉清という人物が両家の領主に決まったのですが……この人選がよくありませんでした。

 

人手不足から統治がガタガタ……そして一揆へ

吉清は、武功や事務手続きの手際を見込まれて出世した人物であります。
実力主義で這い上がってきた方で、元々の身分は高いとはいえません。

よって、二つの大名家が持っていた領地を治めるほどの人手が、彼の家中だけでは絶対的に不足していました。

しかもナゼか秀吉は人員を補充してくれません。
自身が天下人となり色々と甘く見てしまったんでしょうかね。

そこで吉清は、現地で手当たり次第に武士へ取り立てて補おうとしました。

が、農民上がりでいきなり統治に関する仕事がうまくやれるはずもなく、葛西・大崎の旧臣たちからすれば「なんだあいつら、まともに仕事もできないのか!」と激おこ状態。実害を受けた農民たちからすればそれ以上だったでしょう。

しばらくは浅野長政(当時は長吉)が目付役としていろいろやっていたので、問題が表面化することはなかったのですが、長政が帰った途端に紛争が起き、その半月ほど後に一揆が本格化します。

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一揆の解決は氏郷と政宗が

これに対し、吉清と息子の清久は相談して解決を図ろうとしますが、一揆勢に囲まれて城から出られなくなってしまう――という最悪の事態に陥りました。

一揆勢のほうには葛西・大崎の旧臣たちがたくさんいる上、領民とも馴染みがあるので士気も統率も良く、あっという間に旧領回復同然の状態になったのです。

長政は帰京の途中で白河城に滞在しており、一揆の知らせを受けて蒲生氏郷と伊達政宗に解決を命じました。

氏郷と政宗は相談の上、11月16日から軍を動かすことに決めます。

しかし、11月15日になって事態はにわかにキナ臭くなって参ります。
「あの一揆は政宗が扇動しているんです!」と蒲生家に訴える者が現れ、単なる一揆掃討では収まらなくなったのです。

政宗さんだけに、こりゃ何かあるぞ!と期待してしまうのは現代人のよくない見方かもしれませんが、それを裏切らないだけに政宗さんであり……。

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「政宗がヤバくて動けない!」氏郷が秀吉に訴える

蒲生へ訴え出た者の話は信憑性の高いものでした。

一揆を先導する旨の密書が政宗の右筆の手で提出されたこと。
「伊達軍は空砲を撃っている=戦うつもりがない」という証言があったこと。

こうした状況から、蒲生氏郷は「このまま出撃すれば、伊達軍と一揆勢に囲まれて殲滅されてしまう」と考えます。

そこで氏郷は単独で行動し、一揆勢に落とされていた城を占領、籠城戦の支度を始めました。

同時に秀吉へ「政宗がヤバそうなのでうかつに動けません」(超略)と報告しています。
用心深すぎる感もありますが、一方で織田信長にも気に入られたエリート氏郷の手際の良さがわかりますね。

この報告を受け、秀吉は石田三成に現地での対策を命じました。
しかしまぁ、また角の立ちそうな人を選んだものです。

秀吉って能力がある人を抜擢するのは非常に上手いんですが、他の欠点に目が行かない傾向がありますよね。三成しかり、木村親子しかり。

ともかくこれでハラハラし始めたのは、当然政宗です。

当初は「いっけねバレた(>ω・)」くらいの気持ちだったでしょうけれども、黙っていると良くて改易、悪くて物理的に首が飛ぶので、対策を始めました。
直ちに木村親子を救出し、異心のない証拠として氏郷に預けたのです。

それでも氏郷は信用せず、政宗に人質を要求しました。この辺は氏郷の完璧主義というか、「念には念を」という考え方が見て取れます。
政宗はいわれた通りに、親戚かつ重臣の伊達成実と国分盛重を差し出しました。

一方、一揆勢の元主君である大崎義隆は騒動のことを知らず、秀吉に直接詫びを入れるために京都に出向いていました。

秀吉はこれを良しとして、「検地が終わったら1/3だけ戻してやんよ」と約束し、朱印状を出すのですが……その結果はまた後ほど。
ことが動き始めたのは年が明けてからでした。
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