細川勝元

細川勝元/wikipediaより引用

細川家

戦国時代を招いた細川勝元~応仁の乱は東軍視点で見るとわかりやすい

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赤松家・畠山家・斯波家 それぞれの事情

まず、お家騒動に関する「各家の事情」は以下の通りです。

◆赤松家のケース

「四職」と呼ばれる室町幕府のお偉いさんのひとつであり、【嘉吉の乱】首謀者の家です。

時の当主・赤松満祐は既に世を去っていて、大名としては滅亡同然になっていました。

しかし、勝元は満祐の弟の孫である正則を当主として、赤松家を再興させてしまいます。

これに宗全は大反対でした。

嘉吉の乱後、赤松家を始末したのは宗全なので当たり前です。

再興させてもらったことを感謝していたかどうかはわかりませんが、正則は後々勝元方の尖兵のような形で、応仁の乱の最初期に宗全方を攻撃することになります。

宗全からすれば「だから嫌だと言ったのに!」とキレたいところだったでしょうね。

◆畠山家のケース

畠山家も【三管領】と呼ばれる室町幕府のお偉いさんの家です。

この頃は当主・持国の息子である義就と、持国の甥っ子である政久が対立していました。

畠山義就(息子)
vs
畠山政久(甥)

元はといえば、義就が生まれる前、持国は政久の父・持富を跡継ぎにしていたのです。

しかし義就が生まれたため、持富は跡継ぎの座を取り消されてしまいました。持冨は聞き分けの良い人だったらしく、不平を言わなかったのですが……。

持冨の死後、家臣たちの一部が「本当は持冨様が家督を継ぐはずだったのに! こうなったら息子である政久様を当主にしなくては!」と意気込んでしまったために、お家騒動が始まってしまいます。

これに対し、細川勝元も宗全も、当初は政久を支持していたのですが、数年後に宗全が義就に鞍替えしました。

政久が亡くなったため、勝元はその弟である政長を支持し、お家騒動が続きます。

後々、室町将軍の足利義政から「二人とも畠山家からは手を引くように」といわれて引っ込んでいますが、対立のきっかけの一つになったことは間違いないですね。

◆斯波家のケース

斯波家も「三管領」のひとつに数えられる家です。

ヘマをして追放同然になった前の当主・義敏と、義政によってその後釜に据えられた遠い親戚・義廉が対立していました。

ここについては、勝元が義敏、宗全は義廉を支持しています。

見方を変えれば「細川勝元は義政に逆らい、宗全は義政の決定を重んじた」ともいえますね。

応仁の乱勃発頃に、宗全は義政にゴリ押しして義廉を管領職に就けているので、そのためだったかもしれませんが。

 

明との貿易、養子問題……ドコでもぶつかる勝元と宗全

では、残り2つのポイント

◆財力を巡る対立

◆養子の扱い

もマトメておきましょう。

◆財力を巡る対立

当時は西国大名の多くが明(当時の中国)と貿易を行い、大きな利益を得ていました。

これに注目した細川勝元は「どうにかして大内家の領地とカネをぶんどりたい」と考え、その手始めに伊予(現・愛媛県)の大名・河野氏を攻めます。

河野氏も内紛を起こしていたので、勝元がその一方に手と口を出した形でした。

が、もう一人の当事者が宗全の娘婿だったために、宗全にケンカを売るも同然になってしまいました。

◆養子の扱い

まだ宗全と対立していなかった頃、なかなか息子に恵まれなかった勝元は、宗全の末子・豊久を養子に迎えていました。

が、その後、自身の実子・細川政元が生まれたため、豊久を廃嫡して仏門に入れるという暴挙を働いています。これでは、宗全が「あの野郎(#^ω^)」と思うのも当たり前ですよね。

乱暴に一行でまとめるとこうなります。

「勝元と宗全は、他家のお家騒動(×3)・カネ・養子のあらゆる面で対立していた」

こうしてみると、勝元が宗全にケンカを売り続けた感がありましょう。

宗全もいろいろ強引なことをやっているので、一方的な被害者というわけではありませんが。

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