細川勝元

細川勝元/wikipediaより引用

細川家

戦国時代を招いた細川勝元~応仁の乱は東軍視点で見るとわかりやすい

1473年6月6日(文明5年5月11日)は、室町幕府管領・細川勝元が亡くなった日です。

戦国時代の幕開けとして知られる『応仁の乱』。その当事者として戦った人物として有名ですね。

では一体どのような経緯でそんなことになったのか?

本稿では細川勝元さん視点で当時を振り返ってみましょう。

この複雑で難解な戦いは、もしかしたら片方にスポットを当てて見た方がわかりやすいかもしれません。

 

幼名は聡明丸って……

勝元は永享二年(1430年)、第十四代室町幕府管領・細川持之の嫡男として生まれました。

幼名は聡明丸と言いまして……後に彼がやったことを考えると聡明どころか「名は体を表すの真逆」感が……。

嘉吉二年(1442年)で父を亡くし、13歳で家督を継承。

六代将軍・足利義教が暗殺された【嘉吉の乱】の翌年でもありました。

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「勝元」の名は、七代将軍である足利義勝から「勝」の字をもらったものです。

幼いながらに、叔父の細川持賢に後見されて摂津・丹波・讃岐・土佐の守護を務めました。

16歳のとき管領に就任し、時にその地位を降りながら、生涯、室町幕府と日本史に影響を及ぼすことになります。

 

後に敵となる宗全の養女が正妻だった

応仁の乱のもう一人の当事者といえば山名宗全です。

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あんな大乱を起こすような対立をした者同士ですから、さぞかし当初から仲が悪かったのだろう――と思いきや、当初はそうでもありません。

宗全と勝元には親子ほどの年の差がありましたし、勝元は宗全の養女を正室に迎えています。

しかし、度重なる政治的な対立によって、応仁の乱が引き起こされていきました。

この辺は同時進行になっているできごとが非常に多くてややこしいところなのですが、今回は時系列ではなく、

◆お家騒動に関する各家の事情(赤松家・畠山家・斯波家)

◆財力を巡る対立

◆養子の扱い

三項目にまとめて、その中身を見ていきましょう。

 

赤松家・畠山家・斯波家 それぞれの事情

まず、お家騒動に関する「各家の事情」は以下の通りです。

◆赤松家のケース

「四職」と呼ばれる室町幕府のお偉いさんのひとつであり、【嘉吉の乱】首謀者の家です。

時の当主・赤松満祐は既に世を去っていて、大名としては滅亡同然になっていました。

しかし、勝元は満祐の弟の孫である正則を当主として、赤松家を再興させてしまいます。

これに宗全は大反対でした。

嘉吉の乱後、赤松家を始末したのは宗全なので当たり前です。

再興させてもらったことを感謝していたかどうかはわかりませんが、正則は後々勝元方の尖兵のような形で、応仁の乱の最初期に宗全方を攻撃することになります。

宗全からすれば「だから嫌だと言ったのに!」とキレたいところだったでしょうね。

◆畠山家のケース

畠山家も【三管領】と呼ばれる室町幕府のお偉いさんの家です。

この頃は当主・持国の息子である義就と、持国の甥っ子である政久が対立していました。

畠山義就(息子)
vs
畠山政久(甥)

元はといえば、義就が生まれる前、持国は政久の父・持富を跡継ぎにしていたのです。

しかし義就が生まれたため、持富は跡継ぎの座を取り消されてしまいました。持冨は聞き分けの良い人だったらしく、不平を言わなかったのですが……。

持冨の死後、家臣たちの一部が「本当は持冨様が家督を継ぐはずだったのに! こうなったら息子である政久様を当主にしなくては!」と意気込んでしまったために、お家騒動が始まってしまいます。

これに対し、細川勝元も宗全も、当初は政久を支持していたのですが、数年後に宗全が義就に鞍替えしました。

政久が亡くなったため、勝元はその弟である政長を支持し、お家騒動が続きます。

後々、室町将軍の足利義政から「二人とも畠山家からは手を引くように」といわれて引っ込んでいますが、対立のきっかけの一つになったことは間違いないですね。

◆斯波家のケース

斯波家も「三管領」のひとつに数えられる家です。

ヘマをして追放同然になった前の当主・義敏と、義政によってその後釜に据えられた遠い親戚・義廉が対立していました。

ここについては、勝元が義敏、宗全は義廉を支持しています。

見方を変えれば「細川勝元は義政に逆らい、宗全は義政の決定を重んじた」ともいえますね。

応仁の乱勃発頃に、宗全は義政にゴリ押しして義廉を管領職に就けているので、そのためだったかもしれませんが。

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