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「松平家はこちらにつくはず」
織田信秀は、
「嫡子を人質にとっているのだから、松平家はこちらにつくはず」
と考えていました。
しかし松平広忠は竹千代を見捨てる覚悟でいたようで、より一層の忠誠心を今川義元に示し、信秀と戦い続けます。
広忠としては、当時、竹千代の他に息子はいなかったので、これはかなりの大博打です。
息子がいたという説もありますが、その辺は不確定。
当人の年齢が、当時まだ20代だったので、
「たとえ竹千代が殺されても、これからいくらでも息子を作れる」
なんて思っていた可能性は否めませんね。
非情なようですが、この時代らしい&武家らしい死生観です。
信秀自身が子供や親族を重視していたからこそ、松平広忠も子を思って寝返るに違いない――と考えたこともあり得ます。
二人の価値観や戦略の違いが見える局面。
と、ここで両家の計算が大きく狂う出来事が起きます。
安祥城を巡って争っていた最中の天文十八年(1549年)3月、広忠が命を落としてしまったのです。
またもや家臣に殺された説も
広忠の死因についてはこれまた諸説入り乱れています。
・病死
・家臣に裏切られて殺害
・一揆衆による殺害など
かように入り乱れておりますが、松平家にとって「二代続けて当主が突然死」という点は変わりません。
しかも、このときは家を継ぐべき竹千代が、よりにもよって敵・織田家の手中におります。
松平家にとっては最悪にもほどがある状態で、今川家にとってはまたとないチャンスでした。
ここで織田家から竹千代を取り戻してやれば、少なくとも竹千代とその子・孫あたりまでは恩を着せられます。今川家にとっては、東海道における安全地帯が確保できるわけで、今後の上洛や天下人への算段がかなりイージーモードになるわけです(実際に上洛するかどうかは別の話として)。
もちろん、ドコにいるかもわからない竹千代を探すため、片っ端から織田の拠点へ攻め入るのも効率の悪い話。
そこでどうしたのか?
狙われた信長の兄
当時、今川家が攻撃の対象としていた安祥城は城主が織田信広でした。
織田信秀の長庶子で、織田信長の兄にあたります。
信秀はこの頃、安祥城を信広に任せて、本拠の古渡城に帰っていました。信広の生年はわかっていませんが、この時期・状況で最前線を任されるあたり、それなりの年齢と父からの信頼があったと思われます。
今川家にとっては、庶子とはいえ信秀の息子であり、かつ信頼もある。
人質としてのこれほど適性の高い人物はおりませんね。
そこで義元は、
【安祥城の攻略&信広の捕縛】
を右腕・太原雪斎に命じました。
現代では名軍師として知られる、あの雪斎です。
義元を支えた黒衣の宰相「太原雪斎」武田や北条と渡り合い今川を躍進させる
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日本史に軍師という職はありませんが、便宜上、そのまま使わせていただきますね。
攻め込んだ今川勢は、気合が入りすぎて深入りした本多忠勝の父・本多忠高が討死してしまい、松平軍が動揺。
一度は攻撃を取りやめたものの、結果として信広の捕縛には成功しました。
そして竹千代と信広の人質交換が行われ、小豆坂の戦いを中心とする話は一旦区切りがつきます。
「織田信長ドコー?」とジリジリされている方はご安心ください。
主役はいよいよ第3節から登場です。
あわせて読みたい
長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon link)
『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon link)
『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon link)
『信長と消えた家臣たち』(→amazon link)
『織田信長家臣人名辞典』(→amazon link)
『戦国武将合戦事典』(→amazon link)