東海地方の戦局を一変させた桶狭間の戦い。
今川義元が討たれ、織田信長が台頭していったのは皆さんご存知でしょう。
同時に今川家は坂道を転げるように落ちていきますが、彼等を追い込んだのが「海に飢えた虎・武田信玄」でした。
信玄は、義元のいたころ固く結ばれていた【甲相駿三国同盟】を破棄。
【薩埵峠の戦い】で氏真を敗走させ、合戦が始まったことは以下の記事に記しております。
武田軍の駿河侵攻は薩埵峠の戦いから始まった~そのとき今川軍は?
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今回はその続き。
永禄11年(1568年)12月13日に起きた【今川館の戦い】です。
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今川氏の本拠地・今川館(府中館)
【今川館の戦い】といっても、【薩埵峠の戦い】同様に大きな戦闘には至っておりません。
「城」ではなく「館」と称されることからもお察しのとおり、今川の居館は防御機能の脆弱な建物だったからです。
もともと今川館は府中館とも呼ばれ、応永18年(1411年)に今川範政が建設したものです。
東西1000m・南北500mほどのエリアに今川家一族や重臣たちの館が置かれ、その周囲に家臣らの住宅等も配置されて城下町が形成され、駿府は「東の都」といわれるほどまでに大きくなっていました。
さすが足利家に連なる名門・今川家と言ったところでしょうか。
もちろん今川氏が、自国へ攻め込まれることを想定しなかったワケではありません。
平時の政治機能を有した今川館に対し、戦時用に「詰城(つめじろ・戦時に使用される支城)」を用意した――と目されているのが賤機山城(しずはたやまじょう)です。
いわば今川館を守ったり、そこへ逃げ込んで籠城をするための城ですね。
この二つの城は近くにあり、現在の計測で徒歩30分ほどです。
現在の駿府城は徳川家康によって建て直されたものであり、今川館の正確な位置は不明なのですが、当時もそう大きくはかけ離れていなかったでしょう。
武田家には要害山城
ちなみに武田信玄にも、本拠地・躑躅ヶ崎館に対応した詰城がありました。
要害山城といって信玄が生まれた場所でもあります。
実は当時の武田家は、今川勢の福島正成(くしままさなり)に甲斐国の中まで攻め込まれ、どうにかこうにか武田信虎が追い払った、という経緯があります。
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今川義元・武田信玄・北条氏康の三者の間では、割と強力な同盟が築かれていましたが、そもそも彼らは昔から相争っていた関係性だったのですね。
一般的に愚将とされがちな今川氏真にしても、信玄の不穏な動きに対して何もしなかったワケじゃありません。
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武田家の背後を脅かすため上杉謙信との同盟交渉に臨むなど、それなりに手は打っていたのです。
その内容は
・信玄の動きに注意して互いに裏切らない
・氏真の要請があれば謙信は信濃へ出兵する
・連絡を密にする
などでした。
しかし、現実問題、信玄が一枚も二枚も上手でした。
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