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【今川館の戦い】
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越後攻めを捨て駿河へ向かう信玄
信玄に対抗するため、謙信との同盟を模索する氏真。
それに対し駿河侵攻を目論む信玄は、上杉方の動きを封じるため越後国内の混乱に乗じます。
揚北衆(あがきたしゅう)の本庄繁長が謙信に対して謀反を起こしたのです。
そこからの信玄がまさしく鬼でした。
繁長の謀反を補助するため北信濃へ出陣し、越後への侵入を試み、やはりそう容易くいかない――と判断するや軍を撤退させ、すぐさま今川氏の攻撃にとりかかったのです。
本命は、上杉攻めではなく駿河の今川攻め、という陽動作戦ですね。
実際、今川家臣の調略はすでに大々的に進められており、緒戦の【薩埵峠の戦い】ではほとんど戦にならず、今川サイドの国衆や家臣は次々に武田軍へとなびいていきました。
その勢いで今川館までやってきた武田軍に対し、氏真はほとんど為す術もなく、退却せざるを得ない状況へ追い込まれたのです。
【詰城】である賤機山城で防御しようにも、武田軍に怒涛のごとく攻め込まれ、周囲が敵ばかりでは籠城する意味はありません。
結果、今川館をはじめ駿府の城下町は信玄に焼かれてしまうのでした。
八方塞がり もはや逃げるしかない
もはや逃げるしかなかった氏真。
妻の早川殿に対して「別の城に篭るから早く準備してね!」とバタバタしっぱなしで、彼女は輿も履物も用意できず着の身着のままで逃亡という悲惨なものでした。
氏真夫妻は掛川城(現・静岡県掛川市)に向かって落ち延びていきます。
お供は数十~百人程度だったらしく、名門の一行とは思えない人数だったようで。
侍女などの非戦闘員も含まれているでしょうから、とても戦える部隊ではなかったでしょう。
しかし、このことが北条氏康や北条氏政を「ウチの可愛い娘に恥かかせやがって! 武田許すまじ!!」と激怒させ、今度は武田家をピンチに陥れるのですから因果応報と言いましょうか……。
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武田軍が首尾よく駿河を落とすものの、北条軍が薩埵峠に陣を張ったため戦線は長期化してしまい、その間に、今川派の地域勢力も北条軍と連絡を取りながら武田軍相手に襲いかかったのです。
気がつけば武田vs今川ではなく武田vs北条という大国同士の争いに変わっていました。
さらには、そこに上杉の思惑や動きも加わって話は超ややこしくなっていくのですが、本稿ではともかく今川氏真に注目しますと……。
掛川城に逃げ込んだ後は徳川軍に囲まれてしまい、最終的に城を明け渡すと、妻・早川殿の実家である北条家を頼ったのです。
大名としての今川氏は、この時点で滅んだとされますね。
ただし、その後の氏真は最終的に徳川家の傘下にくだり、77歳まで長生きするのですから、なかなかタフなメンタルだったと言えるのかもしれません。
名前と家を残す――。
そんな意味では最も成功した戦国武将の一人と言えるでしょう。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
西ケ谷恭弘『国別 戦国大名城郭事典』(→amazon)
平山優『武田信玄 (歴史文化ライブラリー)』(→amazon)
歴史群像編集部『戦国時代人物事典(学習研究社)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
峰岸純夫・片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)