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【今川義元】
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花蔵の乱
義元の当主就任に「待った」をかけたのは、他ならぬ兄の玄広恵探です。
出自的には不利なはずなのに、彼には「兄の自分が優先されるべき」という思いがあったのでしょう。また側室とはいえ、母の生まれが有力家臣・福島氏だったのも影響していると思われます。
義元と玄広恵探。
二人の家督継承争いは、従来「玄広恵探が個人的に反乱を起こした」という、比較的小規模なものだったと考えられてきました。
ところが近年では、福島氏を中心に大きな勢力が敵対しており、「家中を二分するほどの大騒動だった」という見直しが進んでいます。
なんせ義元の母である寿桂尼が「花蔵(玄広恵探)と同心(心を合わせること)した」というのです。今川家にとっては重要かつ複雑な一大事件でした。
両者の対立は、後に【花蔵の乱】と呼ばれる戦いに発展。壮絶な御家騒動が始まりました。
乱については詳細な史料が残されていないため深堀りすることができませんが、義元方についた大原雪斎や岡部近綱といった人物らの活躍によって合戦を優位に運びます。
そして、義元側に北条氏が介入したこともあって見事に勝利を挙げた――と考えられてきました。
ところが昨今は「北条氏は玄広恵探に味方したのではないか」と考えられるようになっています。
寿桂尼と福島氏の間には密接な関係があったうえ、寿桂尼の娘と北条氏康は結婚していました。だとすれば、北条氏が玄広恵探に味方する理由は十分に存在します。
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加えて、以上が仮に真実だとすれば、寿桂尼の裏切りや戦後の外交政策にもすべて説明がつき、極めて妥当な線に見えてくるのです。
やはり【花蔵の乱】は単なる局所戦ではない。
現代においてはその実像を解き明かせない複雑で大きな戦いだったと考えた方がよさそうです。
もっとも、個人的には乱の発生によって「義元に敵対する勢力」が一掃され、その後の躍進につながったのではないか、と見ています。
武田氏との同盟はなぜ?
乱に勝利した義元は、当主としての地位を盤石なものにしました。
政治面でも大原雪斎の補佐を受け、本格的に戦乱の世へと歩み始めます。
天文6年(1537年)、義元は氏輝以前の外交戦略を大きく見直す、ある決断を下しました。
武田信虎の娘を正室として迎えることで、武田氏との同盟を結んだのです。彼らは代々、今川家と敵対関係にあり、この知らせは衝撃的なニュースでした。
結果、これまで築き上げてきた北条氏との関係を悪化させてしまいます。
武田氏と北条氏は対立関係にあり、「敵の味方は敵」とみなされたのでした。
これまでの説ですと、この義元による「外交政策の大転換」が謎とされてきました。なぜ義元は、わざわざ北条氏と敵対したのか。損得勘定を考えると、まるで道理に合わないのです。
しかし、【花蔵の乱】が影響していたとすれば?
北条氏が義元に敵対していたと考えれば、この外交転換は大いに納得がいきます。
義元の当主就任には、その背景に武田氏がいたと考えるべきで、【甲駿相】三国の関係性がいかに複雑であったかを物語っています。問題は「花蔵の乱に武田氏が介入した」という有力な史料が残されていないことでしょう。ゆえに仮説の粋を出ないのです。
いずれにせよ義元が武田と手を結び、北条と敵対した事実は事実。反感を抱いた北条氏綱はすぐさま今川領であった駿河国河東地域に出陣しました。
【河東一乱】の幕開けです。
第一次河東の乱
天文6年(1537年)2月から始まった【第一次河東の乱】。
今川領へ侵攻してきた北条氏綱軍は非常に手強く、義元は苦戦を強いられました。
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北条軍は、駿河より西の三河・遠江国にも調略を仕掛け、義元を挟撃しようと画策します。
彼らの目論見は成功したようで、今川一族に類する堀越氏や遠江の有力国人である井伊氏が義元に敵対。結果として河東地域は完全に北条氏の手に落ちてしまいます。
ただでさえ家督継承直後という不安定な時期であり、義元は精神面にも大きなダメージを受けたことでしょう。
乱の結果としては、北条氏の侵攻は武田氏の援軍によってなんとか食い止められ、河東地域を切り取られるものの自然休戦の状態に落ち着きました。武田軍の存在もあって北条氏がこれ以上の侵攻をすることはなく、月日が流れていきます。
ところが、です。
盟友関係とも思われた北条氏を裏切ってまで手にした武田氏との同盟が、危うくなってしまう事件が勃発してしまいます。
天文10年(1541年)、同盟相手である武田信虎が「領主として悪逆非道な行いをした」として武田家を追われてしまったのです。
息子の武田晴信(武田信玄)により信虎は駿河へと追いやられ、義元は血縁関係からこれを受け入れざるを得ませんでした。
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結果的に後継者の信玄と同盟の継続ができたため大事には至りませんでしたが、義元も肝を冷やしたことでしょう。あるいは武田軍との連携を途絶えさせたくないからこそ、信虎を引き受けたのかもしれません。
天文14年(1546年)、義元は武田信玄と組んで河東地域の再支配を目論みます。
最初は京都の公家らと通じて和平の道を探っていたようですが、それが不調に終わったためここに【第二次河東の乱】が勃発。
義元軍は家督継承直後であった北条氏康率いる北条軍とよく戦い、さらには関東の山内上杉氏とも連携して優位に戦を進めました。
そして信玄の介入や雪斎の活躍もあり、河東地域から北条勢を追い出したうえでの和睦を成立させます。
義元を苦しめた河東一乱はなんとか終息をみることになったのです。
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