天文法華の乱

比叡山延暦寺

寺社・一揆

戦国最大クラスの宗教戦争は天文法華の乱?延暦寺vs法華宗で都大炎上

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法華宗の二十一本山がすべて炎上

数で言えば圧倒的に不利な法華宗。

それでも当初は戦況が膠着しておりましたが、六角らの近江衆が市街へ入り、放火しまくるという暴挙に出ると次第に追い込まれていきます。

なんせ下京全エリアと上京の1/3が焼け、法華宗の二十一本山がすべて炎上となってしまうのです。

これにより発生した犠牲者は数千から1万人ほど。

一説には【応仁の乱】のときよりも燃えた面積が広かったとも言われ、実に【天明の大火】に匹敵したとか。ひでぇ。

※以下は天明の大火まとめ記事となります

天明の大火
市街の8割が燃えた 空前の火災「天明の大火」は放火犯の仕業だった

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また、数千の民衆が内裏に逃げ込み、圧死する者や喉の乾きで亡くなった人だけでも数百人単位に及んだと言います。

これだけやられてしまった法華宗としては、抵抗しようにもお寺が焼けてどうにもなりません。

彼らはやむなく京都から堺へ落ち延び、再起を待つことになりました。

 

信長の延暦寺攻めより、被害が大きかったんでは?

以降、約6年ほど、細川晴元は京都における法華宗の活動を禁じました。

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しかし、勅許で禁が解かれると、焼き討ちに一枚噛んだ六角家が仲介するというワケワカメな形で延暦寺と法華宗の和議が成立。

騒ぎで焼かれたお寺のうち、半分以上(15本山)は再建されています。まったく、どういうことなんでしょうか……。

「一時的にめちゃくちゃムカついたから焼いただけなんでは?」とすら思ってしまいます。

そしてこの件から35年後、今度は延暦寺自身が織田信長に焼かれるという、まさに因果応報のような展開。

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戦国時代の宗教勢力というと、石山本願寺が目立ちますが、それ以前にも宗派同士による激しい戦いがあったんですね。

人心の荒廃……と一言で片付けるにはあまりに大きな被害でした。

なお、宗教勢力がなぜこれほどまでに権力を保持していたか?

以下の記事に詳細がございますので、よろしければ併せて御覧ください。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典

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