天文五年(1536年)7月、天文法華の乱が起きました。
何やらよくわからん字面ですが、大雑把に言うと「日本史で一・二を争う宗教戦争」であります。
主に比叡山の僧兵と六角氏の軍勢が京都に入り、京都法華宗二十一本山(法華宗のお寺21箇所)を焼き討ちしたのです。
宗教戦争というとヨーロッパや中東の話になることが多いですが、日本でも宗教同士の争いがあったんですね。
一体どんなものだったのか、見ていきましょう。
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法華宗の勢い増し増し 延暦寺へ喧嘩を売る
この頃、京都では法華宗が広く信じられるようになり、勢力を増しておりました。
面白くないのは、より古い宗派の人々です。
法華宗の人も「ウチの教えのほうが正しいんだから、古い宗派なんて意味なし!」という態度でしたので、対立は深まるばかり。
天文元年(1532年)には、「浄土真宗の信者が一揆を起こすために京へやってくるぞ!」という噂により、法華宗側が山科本願寺などを焼くという暴挙を働くまでになっております。
このため、浄土真宗は石山本願寺へ本拠を移すことになりました。
また、法華宗は「ウチはここからここまで自治してるんで、お上に税金は払いません」というワケのわからん理屈で地子銭という税金を拒否するなど、外から見ればケンカを売っているも同然。
信者が増えているので、強気になられたのでしょう。法華宗はどんどん態度をデカくして、どんどん自治状態へともっていこうとしています。
そして天文五年(1536年)2月には、延暦寺に対して宗教問答を仕掛けました。
「問答」とは単なる一問一答のことではなく、教義について違う宗派の人同士が議論するものです。現代風に言えば「ディベート」が近いでしょうか。
このときの問答は【松本問答】と呼ばれ、延暦寺の華王房(けおうぼう)が法華宗の信者・松本久吉に負けてしまいました。
比叡山としては面目丸つぶれです。
約5万~15万の僧兵・信徒・六角軍が焼き討ち
最澄以来、数百年の歴史とプライドを持つ延暦寺。
彼らは、自分たちの半分程度の歴史しかない法華宗に負けたことを認められませんでした。
ならば学問や議論で、再び勝負を挑めばいいものを、ついに物理的な手段に出ます。
東寺・神護寺・根来寺・粉河寺・高野山・三井寺・東大寺・興福寺・石山本願寺などに声をかけ、法華宗に対する武力蜂起を促したのです。もう仏法も面子も関係ありません。
しかも、これを重く見た六角定頼らが調停に入るのですが、その六角軍が延暦寺に取り込まれ、矛先を法華宗に向けるのだからカオスの極み。
かくして京都エリアに集まった軍勢は凄まじいものとなりました。
◆比叡山約5万~15万
◆法華宗2~3万
記録によって兵数は異なりますので15万はさすがに盛りすぎかと思われますが、いずれにせよ数万単位の僧兵・信徒・六角軍が法華宗のお寺に焼き討ちをかけたのです。
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