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【戦国武将の評価】
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2010年代から現在:義光書籍発刊相次ぐ
2010年代後半になると、最上義光関連書籍の発売が相次ぎます。
研究書も小説も刊行。ゲームやライトノベルでも好意的な扱いが増えてきました。若い人たちには、義光の像は好意的にとらえられるようになるのです。
そして2016年には、集大成とも言える書籍が販売されました。
これに続けとばかりに翌2017年秋にも、竹井英文編『シリーズ・織豊大名の研究6 最上義光』、粟野俊之『最上義光』が刊行。
少し前では考えられないほどに義光研究は進展してくのです。
時計の針を少し戻して2016年11月にはNHKの歴史番組『ヒストリア』においても「戦国一のワル? 山形・最上兄妹の素顔」が放映され、好意的な義光像が順調に広がっていきました。
こうした書籍発刊が相次いでいるのも、人気の上昇が関係あるのでしょう。
いくら研究が進んだところで、関心を持たれなければ一般向けには発売されないものです。
近年の研究書では、義光従来の低評価にふれつつ、
「一方的な低評価に対して反証したい」
という方もいれば
「低評価の反動で過度に讃美しないようにしたい」
という方もいるようです。
いずれにせよ、感情的な低評価を反省し、正当な業績評価をするという姿勢が貫かれています。
低評価は言いがかりなのではないか?
こうして義光評価を見直すと、歴史のウネリというか評価というのはなんだかなぁとツッコミを入れたくなります。
義光の評価が低いのは、近隣の敵対した伊達家や上杉家の記録であしざまに書かれたから、という説明は一見それらしく思えます。
が、実はそうではありません。
地元において義光は、長いこと英雄視されてきました。敵対勢力の影響よりも、地元での名声の方が勝ってきたのです。
義光低評価の底は、1960-70年代にあります。とある山形商業会のボスと研究者が彼を嫌ったという影響が、最も大きいのです。
そしてこうした評価には、不可解な意図を感じずにはいられません。
例えば低評価時代の研究では、秀吉への臣従がごますり、へつらいとらえられました。
しかし、それを言うなら織豊期の大名はほとんどへつらい野郎になるでしょう。
秀吉本人も家康をなんとかして呼び寄せるために母親を人質に出したりしていますし、生き延びるためのこうした工夫を「プライドのない奴だな」と否定するのは、現代人の驕りそのものではないでしょうか。
血腥い銅像を公園に建てるな、というのも言いがかりにしか聞こえません。それだと歴史上の人物はだいたい引っかかります。
『独眼竜政宗』にせよ、『信長の野望』にせよ、こうした言いがかりのような研究を参考にした以上、義光を肯定的には描けません。
歴史人物の評価は変化しやすく、かつ変なイチャモンを受けるという一例として、最上義光像の変遷は興味深く、かつ不運なサンプルといえるかもしれません。
なお、最上義光そのものの生涯をお知りになりたい方は以下の記事をご参照ください。
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文:小檜山青
※著者の関連noteはこちらから!(→link)
【参考】
竹井英文『最上義光 (織豊大名の研究6)』(→amazon)
伊藤清郎・日本歴史学会 (編集)『最上義光 (人物叢書)』(→amazon)
粟野俊之『最上義光』(日本史史料研究会)