駒姫

駒姫/wikipediaより引用

最上家

東国一の美女が連座で処刑された 駒姫(最上義光娘)の死はあまりに理不尽だ

たとえ戦国時代とはいえ、あまりに理不尽で腹立たしく、とにかく異様としか言いようがない――。

そんな哀しい出来事が、文禄4年(1595年)8月2日に起きました。

豊臣秀次切腹事件に連座して駒姫が殺されたのです。

確かに、夫の不始末で妻子が処刑されるケースはこの事件だけでもありません。

しかし駒姫に関しては、秀次に嫁ぐ直前のことであり、正式に側室となったワケでもないのに連座で殺されてしまうという後味最悪の事件でもありました。

被害者の父である最上義光(よしあき)にしてみれば、殺害を命じた豊臣秀吉を心の底から呪ったことでありましょう。

現代でもとにかく腹立たしい、同事件を振り返ってみます。

駒姫像/wikipediaより引用

 


駒姫が側室になる前だったにも関わらず

駒姫とは、前述の通り最上義光の娘で、東国一の美女として知られておりました。

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その噂を聞きつけた豊臣秀次が、自身の側室に差し出すよう義光に迫り、そしてそのため出羽から京へ送り出されたのです。

しかし、その直前に肝心の豊臣秀次が自害で果ててしまいました。

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それだけならまだしも、怒り狂った豊臣秀吉が、秀次の妻や側室、子供たちだけでなく侍女らなど約40名を処刑。

その中に、駒姫も含まれていたのです。

武家の男子は、たとえどんなに幼くても父に連座して処刑されるのは通例となっています。

平清盛が、幼い源頼朝源義経を助命して、のちに復讐された先例があるためともされます。

しかし女子の場合、助命されるのが通例。

例えばこのルールが適用された例として、大坂の陣での豊臣一族も挙げられるでしょう。

豊臣秀頼の幼い息子は処刑されながら、娘は出家させられ、尼として天寿を全うしております。

徳川家康が宿敵である豊臣にとった処置と比較すると、秀吉の秀次に対する仕打ちがいかに異様であったか、お察しいただけるハズです。

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「豊臣の世は続かない」民衆も呆れ返る凄惨な事件

また、処刑だけではなく、遺体への処置も異常なものでした。

まず処刑前、妻子たちは秀次の首を拝まされました。

暑い季節です。腐敗が進んでいたことでしょう。

そして最初に殺されたのが、まだ幼い子供たちでありました。

母親の目の前で、子供たちをつかみ刺し殺す――それから我が子の遺骸を抱いた母の首を順番で刎ねたのです。

骸は穴に蹴落とされ、遺族に引き渡されず、そこには「秀次悪逆塚」と記した石碑が置かれました。

殺された人選も謎です。

秀次の妻でありながら助命された者もいるかと思えば、生前の顔すら見たことがないのに巻き込まれた者もいました。

秀次の妻というよりは、秀次に保護されていただけと思われる少女や、近くに仕えていたと思われる老齢の尼も含まれています。

もう、無茶苦茶です。

秀吉が何を考えていたか、まったく理解できず、ただただ推察するほかありません。

もっとも動機は重要ではないかもしれません。

大事なのは、この事件が世間の大反発を招いたことでしょう。

事件に巻き込まれた大名から、処刑のむごたらしさにあきれかえった民衆まで、皆が豊臣の世は長く続かないだろうと憤りを感じていたのです。

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まさに世論を動かした事件でした。

 


駒姫以外は家臣に嫁いだ最上家の娘たち

惨殺された中でも、特に悲劇的とされたのは、最上義光の二女・駒姫でしょう(三女という説も見かけますが二女です。お伊満の方、お伊万、お今とも)。

享年十五歳という若さも気の毒なことながら、彼女は秀次と顔をあわせたことすらありませんでした。

そもそもなぜ、出羽の大名の姫君が関白の側室となったのか。

その経緯をたどると、伝説的な部分が見えて来ます。

出羽の姫君が関白の側室になった理由――そんな疑問の解明から進めて参りましょう。

畿内から遠く離れた東北の姫が関白に見初められた理由は色々と推察できます。

まず考えられるのが、最上義光の野心説でしょうか。

しかし、これはあまり説得力がないと思います。

秀次のもとには、既に有力公家や大名らの娘が正室や側室としておりましたし、その間に子供も誕生していました。

駒姫が彼女らを押しのけて寵愛を受け、そのおかげで最上家が引き立てられることが果たしてできたか?

大勢いる関白の側室になるより、大名の正室として別のドコかの家に嫁ぐ方が、メリットがあるのではないでしょうか。

ちなみに義光には娘が四人いますが、駒姫以外は全て家臣に嫁いでいます。

義光の息子たちも大名家から妻を迎えていないようで、義光はあまり政略結婚に乗り気ではなかったのかもしれません。

このあたりは今も伝わっている「義光は何度も秀次の依頼を断っていた」という話と矛盾しないと思います。

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