絵・小久ヒロ

毛利家

吉川経家と鳥取城渇え殺し――切腹直前に子供たちへ残した“ひらがなのてがみ”

更新日:

人物概略・吉川経家とは

1547年生まれ。
父は吉川経安で、石見福光城(島根県邇摩郡)の城主だった。

毛利元就の次男・吉川元春が継いだ吉川家とは別系統だったが、これに従軍して武名をならし、天正2年(1574年)には父経安の後を継いで石見吉川氏を率いていた。
石見吉川氏は鎌倉時代から続く同地方の国人である。

経家の運命が大きく動くのは天正9年(1581年)正月のこと。
鳥取城の城督に任じられて3月に入城する。

この城、以前は山名豊国が治めており、秀吉の侵攻に際して織田家に降っていたが、城の家臣や周辺の国衆たちは毛利家を支持し、山名を追い出していた。

毛利にとって対織田家最前線の重要な拠点となり、そこへ勇将として知られた吉川経家が防備にあたることになったのだ。

経家は雁金山城や丸山城の防備を固め、日本海からの兵糧運搬経路を確保しようとする。
しかし、そこへやってきたのが豊臣秀吉率いる大軍であった――。

以下本文へ。

 

吉川経家と鳥取城の渇え殺し

天正九年(1581年)10月25日、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が攻め込んでいた鳥取城が、城主・吉川経家の切腹と引き換えに開城しました。

歴史ファンにはお馴染み【鳥取城の渇え殺し】と呼ばれる戦いですね。

以前、この城に籠り、餓死寸前となった住民のイメージイラスト【かつ江さん】で有名になったのを覚えていらっしゃるでしょうか。

作者さんは「鳥取城の悲劇を後世に伝えるため」として描いたという素晴らしい志でしたが、残念ながらR15的な理由で不採用になってしまいました。
個人的にはとても良い試みだと思ったんですけど……。

といっても、この手の秀吉の苛烈な行為についてはなぜか伏せられる傾向がありますので、一体かつ江さんがなぜあのデザインになったのか、城主・吉川経家の動向と共に詳しく見ていきましょう。

 

信長の命で秀吉が実施した大規模兵糧攻め

当時の織田家中では、秀吉が中国地方の攻略担当。
鳥取城攻めは、織田信長の命で行われたものでした。

備中(現・岡山県)あたりまでは、ほぼほぼ順調でしたが、さすがに西国の雄・毛利家となれば話は別。
毛利領に入ったあたりから、秀吉は大規模かつ奇抜な攻め方をし始めます。

それが”三木の干し殺し”や”高松城の水攻め”、そして本稿で取り扱う”鳥取の飢え殺し”です。

この三つ、大まかに言えばどれも兵糧攻めということになるのですが、秀吉vs毛利家の場合、攻守共に武将たちの根性がハンパなかったために大惨劇に陥りました。

秀吉がかけたものはお金・物資と時間、労働力。
毛利家が払ったものは城兵及び逃げ込んだ領民、さらに城主(毛利家の武将)たちの命でした。

 

前城主・山名豊国は追い出されていた

当時の鳥取城の主は、吉川経家(つねいえ)と言います。

名前通り吉川家の一員ですが、前述の通り吉川元春の吉川家とは流れが別です。
お父さんの代で石見吉川氏の養子に入り、経家は主に尼子家との戦いで活躍したことがあり、信頼されていました。

以前の鳥取城主・山名豊国は
「秀吉さんに降伏します!」(超訳)
と言い出して一度は開城しながら、後に家臣に追い出されので、その後を任せられそうな人物として抜擢されたのが経家だったのです。

経家は鳥取城へ入ると、まず領民の保護兼人員補充のため、付近の農民を城へ入れました。

平時であれば兵と家臣たちを合わせて2000人規模の城に(当時は1,400人前後とも)、倍の4,000人がいたといわれています。

 

事前に買い占められた兵糧

いつもより人数が多いのですから、当然食料も倍必要です。

そこで付近の農家商家へ米を買いに行かせましたが、時既に遅し。
はじめから兵糧攻めする気満々だった秀吉そして黒田官兵衛によって、既に近隣の米は買い占められた後でした。

同年6月頃のことです。
これを知った経家は陸海両方から兵糧を入れるための手立てを講じますが、ネズミ一匹通さないほどの包囲網を秀吉軍に敷かれてしまうのです。

命がけで兵糧の運搬に挑む毛利。
そして尽く失敗すると、元々1か月分しかなかった食料はあっという間に尽き、やむを得ず家畜や雑草まで食べ、9月に入ると餓死者が続出し始めました。

ここからはもう地獄絵図としか言いようのない有様です。

いつもだったらその手の描写は省くのですが、かつ江さんが何を訴えたかったのかをご理解いただくため、今回はあえて詳細を書かせていただきます。
正直グロ以外の何物でもないので、苦手な方は飛ばしてくださいね。

 

【鳥取城の惨状まとめ】

信長の功績を称える書として著名な『信長公記』にはこう記されています。

「餓鬼のごとく痩せ衰えたる男女」
「叫喚の悲しみ、哀れなるありさま、日もあてられず」

もう目を伏せたくなりますが、より具体的な状況を挙げさせていただきますと。

・戦力及び労働力として重要な馬や牛を食べつくし、さらに犬猫ネズミまで食べた

当時の日本に肉食の習慣がほぼなかったことを考えると、この時点で既に相当のものです。
かつ江さんは、手にカエルを持っていましたが、入手できていたらもちろん食べていたでしょう。

・2ヶ月目には先に死んだ者をたべるようになり、そのうちまだ息のある人間も……

江戸時代の四大飢饉のように極限状態ではままあることですが、鳥取城の場合そんな状況が人為的に作り出されたということがもう、何とも言えません。
このとき一番うまいとされたのは<NOみそ>だったそうです。他には……。
※続きは次ページへ

次のページへ >



-毛利家
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2019 All Rights Reserved.