平手政秀

絵・小久ヒロ

織田家

平手政秀(信長の傅役)が自害したのは息子と信長の不仲が原因か~62年の生涯

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公家の饗応役もこなしており

明応元年(1492年)生まれの政秀が、史料に表れるようになるのは天文二年(1533年)頃から。

織田信秀が、主筋である織田達勝(おだたつかつ)や、小田井城の織田藤左衛門と争っており、その講和のため公家の飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)を招いたことがありました。

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このとき公家・山科言継(やましなときつぐ)も同行しており、彼の日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』に政秀のことが少し書かれています。

なんでも政秀が、飛鳥井と言継の二人を朝食に招いたらしく

「屋敷は立派だし、平手殿のもてなしぶりもすばらしい」

と評価しているのです。

応仁の乱以降、京都が荒れ放題だったことを考えると、地方の武士や富裕層のほうがよほどいい暮らしをしていたのでしょう。当時の公家の悲哀が窺える一節でもあります。

実際、言継も、自分で医学をかじって近所の庶民を診察し、薬を処方するなどの内職をしていた糊口を凌いでいたほどでした。

なお『言継卿記』は、今後も織田弾正忠家(信秀や信長の家)関連の話でよく出てきますので、織田ファンの方は覚えて置くと良いかもしれません。

 

朝廷への使いや斎藤家との縁談もまとめ

その後、信長が生まれてからの政秀は、傅役(もりやく・跡継ぎを育てる人)兼二番家老となり、信長の元服や初陣にも付き従っています。

それだけではありません。

並行して、織田家の重要な仕事も請け負っておりました。

例えば、信秀が朝廷へ内裏の修繕費用を献上したときや、清須織田氏と講和をするときなど、主に外交で「ここ一番」というときに仕事を任されていたのです。

有名なところだと、斎藤道三の娘・濃姫を信長の正室に貰い受けるときの交渉も、政秀が担当しておりました。

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信秀・信長にとって、政秀はまさに得難い家臣だったといえるでしょう。

なんせ『信長公記』でも「政秀は風雅で心遣いができる人」と評されています。

日頃は温厚な知識人という感じの人だったと思われます。

そういう人が若き日の信長の家老となると、気苦労が絶えなかっただろう……というのは、なんとなく想像がつきますよね。

これまた信長公記に書かれていますが、いつの頃からか、政秀の長男・五郎右衛門と信長が不和になったために、さらに胃痛の種が増えてしまいました。

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