平手政秀

絵・小久ヒロ

織田家

平手政秀(信長の傅役)が自害したのは息子と信長の不仲が原因か~62年の生涯

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息子と信長の不和から板挟みになり……

不和の原因は、五郎右衛門が持っていた名馬でした。

名馬マニアとして知られる信長がこれを所望したところから悲劇が始まります。

五郎右衛門が「私は武士ですので、馬がなければ働けません。お許しください」とキッパリ断ったのです。

平手家は決して馬を買い換えられないほどの家ではありませんから、その馬がよほど優れていたのでしょう。信長が直接欲しがるくらいですしね。

これをきっかけに五郎右衛門と信長の関係が悪化し、政秀は板挟み状態になったとされています。

また、信秀の葬儀での信長の言動があまりにも常軌を逸していたこと、その後も行状が改まらないことなども、政秀を悩ませました。

そしてついに、天文二十二年閏1月13日(1553年2月25日)、自ら命を絶ってしまったのです。

信秀が亡くなってから、もうすぐ一年という頃合いでした。

 

「政秀のおかげだ! 馬鹿にするな!」

信長は政秀の死をいたく悲しみました。

そして、その名を冠した「政秀寺(せいしゅうじ)」を春日井郡小木村(小牧市)に建て、菩提を弔います。

住職は、信長の師の一人であり、政秀に後事を託された沢彦宗恩でした。

真偽の程は不明ながら、その後もこんなエピソードが残っています。

◆信長は鷹狩に行くたびに、政秀への供え物として肉を投げ上げた

◆後年、他の家臣が

『殿がこんなに偉大になったのに、平手殿は自刃するなんて早まったことをしましたね』

と政秀を揶揄すると、信長が激怒。

『俺がここまで来れたのは政秀のおかげだ! 秀を馬鹿にするな!』

残念ながら、このエピソードが本物かどうかは不明です。

しかし、信長が政秀を懐かしむような言動をしていたからこそ、こういった話が残ったのでしょう。

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長月 七紀・記

【参考】
国史大辞典
織田信長家臣人名辞典』(→amazon
『織田信長の家臣団―派閥と人間関係 (中公新書)』(→amazon
平手政秀/wikipedia
世良田氏/wikipedia
平手氏/wikipedia

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