天正3年(1575年)5月21日は【長篠の戦い】が起きた日です。
一般的には「鉄砲の三段撃ち」で知られているこの合戦。
そもそもは武田軍に包囲された長篠城の籠城戦から始まっており、戦国ファンの皆様には「鳥居強右衛門(とりいすねえもん)」という徳川方足軽のエピソードも印象深いでしょうか。
「誰だよ、それ?」
という方に5行でまとめておきますと以下の通り。
鳥居強右衛門ってどんな人?
①武田軍に囲まれ兵糧攻めされていた長篠城をこっそり抜け出す
②信長と家康のもとへ走って援軍を要請
③再び長篠城へ戻ろうとして武田軍に捕まる
④(城の仲間に向かって)「“援軍は来ない!”と叫べ」と武田軍に強要される
⑤磔にされたまま「援軍は来る!」と叫んで武田軍にぶっ殺される
※詳細は以下の記事へ
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これぞ学校では習わない、というか触れられないであろう歴史の一幕ですね。
本稿では『信長公記』で【長篠の戦い(長篠城・設楽原の戦い)】をどんな風に伝えているか。
まずは当時の状況から振り返ってみましょう。
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長篠の戦い(長篠城・設楽原の戦い)【前夜】
長篠の戦いが起きるまでの経緯を簡単にまとめておきます。
元亀四年(1573年)春、武田信玄が死去すると、本人の遺志でその死は秘匿とされました。
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が、実際には隠しきれてはいなかったのでしょう。
一時は、徳川方から武田になびいていた国衆の奥平が、武田家の動向に不信感を抱き、再び徳川方に戻ります。
徳川家康は、当主・奥平信昌(当時は貞昌)を対武田の最前線・長篠城に置きました。
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これに黙っていなかったのが武田勝頼です。
勝頼は、徳川領の入り口に当たる部分をつつき、そして天正三年(1575年)4月、ついに三河へ侵攻、5月になって長篠城を包囲するのでした。
主に【武田vs徳川】の争いであって、織田家は徳川家の同盟相手として参加したという形になりますね。
【姉川の戦い】が主に【織田vs浅井・朝倉】という構図で、そこに徳川家が織田家の同盟相手として加わったのと、ちょうど対になるようなイメージともいえるでしょうか。
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むろん織田家にとっては他人事ではなく、動員できる主力部隊を投じています。
強右衛門もやって来た?
『信長公記』では、5月13日に織田信長と織田信忠が出陣したところから始まります。
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この日は熱田に陣宿。
熱田神宮の摂社・八剣宮が荒廃していたことに気付き、「大工の岡部又右衛門に修理を命じた」とあります。
無神論者とされることもある信長ですが、害をなさない寺社については、やはり常識的な対応をしていますね。
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そして14日には岡崎へ着陣し、翌日、駐留しています。
おそらくはここで、信長と家康が今後の方針を話し合ったのでしょう。
鳥居強右衛門がやってきたのも、ちょうどこの頃だったと思われます。
16日には牛窪の城(おそらく牛久保城・豊川市)に宿泊。
ここに丸毛長照と福田三河守を置いて、後方の備えとしました。
窪地の死角に3万の兵を振り分け
鳥居から状況を聞いたであろう信長は17日、野田原(新城市)に野営。
翌18日に志多羅の郷極楽寺山に陣を張り、信忠は新御堂山に布陣します。
もはや実際の戦場に入ったも同然の位置です。
辺りは、くぼんだ地形になっていたので、織田軍は敵の死角になる場所を選び、3万の兵を各所に分けて配置します。
両軍の配置は、次のページで地図を確認しますが、著者の太田牛一はまずこう記しております。
牛一「現地の軍が先陣となる慣例があるので、先陣は徳川家康、高松山に布陣した」
もちろん家康は徳川軍の大将ですから、実際に先陣を切るのは徳川家臣の誰かという想定でしょう。
織田方は、滝川一益・羽柴秀吉・丹羽長秀が有海原(=設楽原)で東向きに布陣し、その前に馬防柵を作りました。
主戦場がこの場所だったため、長篠の戦いは「設楽原の戦い」と呼ばれたりします。
長篠は城を指し、設楽原がエリアの名前と考えればわかりやすいでしょうか。
地図で見てみますと、「長篠城」と「設楽原」の位置関係は以下の通りです。
右側の青いマークが長篠城で、紫色が現在【長篠の戦い決戦場跡】として地図にも登録されているスポット。
両者の距離は、現在のクルマで10分、約5kmとなります。
織田徳川軍は、武田軍が長篠城(青)を囲んでいる間、現地(紫)でせっせと陣強化の準備に励んでいたのです。
窪地でしたので、勝頼からは見づらいように(実際より少なく見えるように)兵を潜ませるようにしておりました。
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