長篠の戦い

長篠合戦図屏風/wikipediaより引用

織田家 信長公記

なぜ信長は「長篠の戦い」で圧勝できた?勝因は鉄砲の三段撃ちではなく天然の要害?

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勝頼が実際に織田とぶつかるのは初

一方その頃、「織田軍到着」の報を受けた武田軍も緊張していました。

実は武田勝頼の代になってから、武田vs織田が本格的にぶつかり合うのは初めてのことです。

確かに【三方ヶ原の戦い】では徳川+織田の援軍を相手に鮮やかすぎる快勝で終わっておりました。

しかし……。

信玄死後から長篠の戦いまでの間(1573年春~1575年春)に、信長は浅井長政朝倉義景の両氏を滅ぼしたり、長島一向一揆の焼き討ちも行ったり、十分すぎるほどの経験を重ねています。

いかに信玄以来の名臣が揃っているとはいえ、もしも敗れれば容赦ない追撃を受ける――そんなリスクは容易に予測できたでしょう。

そのため、武田家の重臣たちは、勝頼へ撤退を進言していたようです。

しかし、勝頼は決戦に挑むことを決意。

武田勝頼/wikipediaより引用

重臣たちの意見を却下すると同時に、長篠へ7つの部隊を派遣しました。

兵数は合わせて1万5000ほどだったとか。

これを13ヶ所に分けて、西向きに配置したといいます。

この段階で両軍の配置図を確認しておきましょう(部隊の位置はおおよその目安)。

左の黄色い部隊が織田徳川軍

右の赤い部隊が武田軍

右の青い拠点が長篠城です。

※各マークをクリックすると部隊名が左に浮かんできます

 


別働隊が砦を急襲 長篠城を解放して追撃する

織田・徳川軍と武田軍の間は、この時点で2.2kmほどの距離しかありません。

都市部だと隣同士の駅が肉眼で見えることがありますが、おそらくそういった距離だったのでしょう。

信長はこれほど近くに布陣できたことを喜び、織田・徳川の両軍から弓・鉄砲の名手を集め、4,000ほどの【別働隊】を編成します。

指揮官は徳川家の重臣・酒井忠次

酒井忠次/wikipediaより引用

織田家からは金森長近なども同行していたようです。

この別働隊に、信長は命じます。

「20日の午後8時頃から乗本川を超え、南の山を迂回せよ、そして……」

彼らは翌21日の朝8時頃、鷲の巣山へ上り、旗を立てて鬨の声を上げ、長篠城包囲軍の拠点・鳶ヶ巣山砦を急襲しました。

砦は落ち、生き残った武田軍は鳳来寺(新城市)へ向かって逃げたといいます。

これにより、長篠城で籠城していた奥平家の味方とも合流することができたため、そのまま酒井隊と共に追撃を仕掛けます。

鳶ヶ巣山砦急襲の時点で、武田軍はかなりの将兵を失いました。

同時に、背後への退路を断たれ、前に出るしか無くなってしまうのです。

 


前に出るな! 迎え撃つべし!

その頃、信長と家康は高松山に登り、攻撃開始のタイミングを慎重に窺っていました。

といっても戦術は一択です。

攻めかかってくる武田軍を”迎え撃つ”のみ!

武田の騎馬隊は強い――信長もそれを重々承知していたので、わざわざ窪地を選んで天然の要塞を築きました。要は籠城したんですね。

誰かが戦功を焦って敵に攻めかかったりしたら、作戦が台無し。

そのため全軍へ「命令するまで決して動かないように」と厳命しました。

そうとは知らず、武田軍が攻めかかってくれたら、織田徳川連合軍はそれだけで有利なのです。

なんせ籠城中の城を攻略するには、通常、数倍の兵力が必要だとされるのに、武田軍は織田徳川よりも少ない兵力で突撃をせねばならない。

信長は、鉄砲隊1000名を選抜し、佐々成政前田利家らを指揮官に任命しました。

前田利家(左)と佐々成政/wikipediaより引用

本隊とは別に、足軽部隊で武田軍を挑発し、鉄砲を使いやすい位置までおびき寄せました。

そしてここからが、おそらく歴史の授業で習う長篠の戦いです。

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