若き日の信長を描くときに欠かせないシーンがこれ。
信長お坊ちゃまが「うつけ」と呼ばれるのはしのびなく、このままでは織田家の先も思いやられます。
爺が自害して果てます。
ゆえに、これより先は、なにとぞ当主としての自覚をおもちくだされ。
そうです、二番家老・平手政秀が自害するシーンです。
父・織田信秀の葬儀で抹香を投げつけたり、領内を半裸の騎乗姿で馬を駆けさせたり。
何かと暴れん坊イメージの先行する信長に対し、自らの諫死でもって行動を改めさせようとする――。
その姿、まさしく忠臣と呼ぶに相応しいですが、逆にいえば、それ以外のことで政秀が話題にのぼることはほとんどありません。
いったい彼はどのような人物だったのか。
天文22年(1553年)閏1月13日に亡くなった平手政秀の生まれや人柄、あるいは他の功績なども見て参りましょう。
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清和源氏に繋がる出自?
例によって、政秀の出自についてはよくわかっていません。
一説には、清和源氏の新田氏から枝分かれした世良田(せらたorせらだ)氏の遠い子孫だといいます。
ややこしい話ですので、系図でザックリまとめておきましょう。
【清和天皇】
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(略)
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源義家
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源義国
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新田義重
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新田義季
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世良田頼氏
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(略)
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世良田有親
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平手義英
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(略)
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平手政秀
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モヤッとするのが、世良田有親が世良田氏のどの系統なのかハッキリしてないところ。
政秀の出自については「清和源氏の末裔……かもしれない」程度で考えておくのがいいでしょうね。
ちなみに、徳川家康も世良田有親の末裔を名乗っています。こちらはそこそこ有名な話ですね。
家康の姓については、以下の記事に詳しくありますのでどうぞご覧ください。
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志賀城の城主だった
生い立ちが不明なら、若い頃も不明な政秀。少なくとも、古くから尾張にある裕福な豪族だったようです。
政秀が和歌や茶道に通じていたとされるのも、平手家が一定以上の財産を持っていたからでしょう。
なにせ志賀城(名古屋市北区)の城主でもありました。
志賀城は、名古屋市中心部にある名古屋城(当時は那古屋城)から北へ約2~3kmの位置にあります。
「あっ、信長さんが生まれた那古屋城から近いんだね!」
と思われるかもしれませんが、現在、信長の生誕地は、志賀城から西へ約16kmにある勝幡城(しょばたじょう)が確実視されております。
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念のため地図で確認しておきましょう。
※左の黄色が勝幡城・赤が志賀城・紫が那古屋城
公家の饗応役もこなしており
明応元年(1492年)生まれの政秀が、史料に表れるようになるのは天文二年(1533年)頃から。
織田信秀が、主筋である織田達勝(おだたつかつ)や、小田井城の織田藤左衛門と争っており、その講和のため公家の飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)を招いたことがありました。
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このとき公家・山科言継(やましなときつぐ)も同行しており、彼の日記『言継卿記(ときつぐきょうき)』に政秀のことが少し書かれています。
なんでも政秀が、飛鳥井と言継の二人を朝食に招いたらしく
「屋敷は立派だし、平手殿のもてなしぶりもすばらしい」
と評価しているのです。
応仁の乱以降、京都が荒れ放題だったことを考えると、地方の武士や富裕層のほうがよほどいい暮らしをしていたのでしょう。当時の公家の悲哀が窺える一節でもあります。
実際、言継も、自分で医学をかじって近所の庶民を診察し、薬を処方するなどの内職をしていた糊口を凌いでいたほどでした。
なお『言継卿記』は、今後も織田弾正忠家(信秀や信長の家)関連の話でよく出てきますので、織田ファンの方は覚えて置くと良いかもしれません。
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