大河ドラマ『麒麟がくる』で高橋克典さんが熱演し、世間からの注目度が飛躍的にアップした――。
天文二十一年(1552年)3月3日は織田信秀の命日です。
ご存知、織田信長の父親であり「この父ちゃんの躍進がなかったら信長の天下統一も無理だったのでは?」と囁かれる勇将っぷりで、『信長公記』にもちょいちょい登場しております。
今回は織田信秀の功績・人柄等に注目してみましょう。
※没年については天文十八年説や二十年説もあります
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分家筋だった織田信秀
信長の名前が大きすぎるため、まず誤解されがちなこと。
織田信秀の一族は、織田家の本筋ではありません。
織田の本家は守護代(室町時代の役職の一つ)を受け継いでいる”織田大和守家”で、信秀が生まれたのは分家筋の”織田弾正忠家”でした。
大河ドラマ『麒麟がくる』の中では「信秀を邪魔する織田彦五郎(織田信友)」が登場していましたが、この彦五郎こそが織田大和守家。
信秀を敵視していたのは、ある意味、自然なことでもあるんですね。
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しかし、当時は戦国。
実力こそが物を言う世界であり、信秀も17歳で父親の生前に家督を継いでいるので、若い頃からデキる奴と思われていたのでしょう。
23歳の頃には名古屋城(当時は那古屋城)を奪って本拠とし、現在の地名で言えば同じ名古屋市内に古渡城や末森城などを築いてたびたび引っ越しておりました。
信長祖父の信定時代からお金重視!
よくそんなお金と人手があったものですが、これは織田信秀の父・織田信定(信長にとっては祖父)時代からの「お金重視政策」が効いたのでしょう。
信定は門前町である津島の地に目をつけ、ここを手に入れて莫大な利益を得ていました。
門前町というのは、その名の通りお寺や神社の前の町。
神社の場合は”社前町”ともいいます。
参拝客を相手に、いろいろな商人が集まり、その評判でまた人の往来が増し、賑わっていくパターンが多いですね。現代の感覚でいえば、観光地みたいなものでしょうか。
津島の場合は川が近いこともあり、水運も盛んでしたので、当時の尾張基準ではかなりの賑わいだったと思われます。
ドラマ『麒麟がくる』でも、当時日本最大級の商業都市だった「堺のようだ」と驚嘆しておりましたよね。
領国経営にしろ戦にしろ外交にしろ、お金がなければ始まりません。
信秀・信長が生まれた勝幡城も、津島で得た利益を元に信定が建てたものでした。
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寺社や将軍とのお付き合い
さらに、織田信秀自身もこれまた門前町である熱田を手に入れて、さらに財源を得ました。
元々は弱小である織田弾正忠家が、本家・主君である織田大和守家や周辺の大名に対抗していくために「金」という武器を手に入れたわけです。
漫画作品などで信長が「永楽通宝」の旗を使ったことがクローズアップされたりしますが、父の代からそこを重要視していたのですね。
伊勢神宮などに修繕費用を出し、主君を飛び越えて朝廷に顔を売っていくのです。
信秀が行ったとされる献金をざっとまとめますと。
信秀の献金例
◆天文十年(1541年)
伊勢外宮に銭七百貫文献上
◆天文十二年(1543年)
「内裏築地修理料」として四千貫文を献上
◆天文十六年(1547年)
禅居庵摩利支天堂(京都市東山区・建仁寺の塔頭寺院)を再建 ※天文十一年(1536年)の【天文法華の乱】で焼失していたもの
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何度もドラマを例に出してあれですが、本木雅弘さん演じる斎藤道三が「信秀は四千貫」と言っていたのはここですね。
信秀がぬかりないのは対朝廷だけではありません。というのも……。
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