織田信秀

萬松寺の織田信秀木像(愛知県名古屋市)/wikipediaより引用

織田家

織田信秀(信長の父)の生涯|軍事以上に経済も重視した手腕巧みな戦国大名

2025/03/02

大河ドラマ『麒麟がくる』で高橋克典さんが熱演し、世間からの注目度が飛躍的にアップした――。

天文二十一年(1552年)3月3日は織田信秀の命日です。

ご存知、織田信長の父親であり「この父ちゃんの躍進がなかったら信長の天下統一も無理だったのでは?」と囁かれる勇将っぷりで、『信長公記』にもちょいちょい登場しております。

絵・小久ヒロ

今回は織田信秀の功績・人柄等に注目してみましょう。

※没年については天文十八年説や二十年説もあります

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド

 

分家筋だった織田信秀

信長の名前が大きすぎるため、まず誤解されがちなこと。

織田信秀の一族は、織田家の本筋ではありません。

織田の本家は守護代(室町時代の役職の一つ)を受け継いでいる”織田大和守家”で、信秀が生まれたのは分家筋の”織田弾正忠家”でした。

大河ドラマ『麒麟がくる』の中では「信秀を邪魔する織田彦五郎(織田信友)」が登場していましたが、この彦五郎こそが織田大和守家。

信秀を敵視していたのは、ある意味、自然なことでもあるんですね。

しかし、当時は戦国。

実力こそが物を言う世界であり、信秀も17歳で父親の生前に家督を継いでいるので、若い頃からデキる奴と思われていたのでしょう。

23歳の頃には名古屋城(当時は那古屋城)を奪って本拠とし、現在の地名で言えば同じ名古屋市内に古渡城や末森城などを築いてたびたび引っ越しておりました。

 


信長祖父の信定時代からお金重視!

よくそんなお金と人手があったものですが、これは織田信秀の父・織田信定(信長にとっては祖父)時代からの「お金重視政策」が効いたのでしょう。

信定は津島神社の門前町がある津島の地に目をつけ、ここを手に入れて莫大な利益を得ていました。

津島神社

門前町というのは、その名の通りお寺や神社の前の町。

神社の場合は”社前町”ともいいます。

参拝客を相手に、いろいろな商人が集まり、その評判でまた人の往来が増し、賑わっていくパターンが多いですね。現代の感覚でいえば、観光地みたいなものでしょうか。

名古屋市の西側にある津島の場合は川が近いこともあり、水運も盛んでしたので、当時の尾張基準ではかなりの賑わいだったと思われます。

ドラマ『麒麟がくる』でも、当時日本最大級の商業都市だった「堺のようだ」と驚嘆しておりましたよね。

領国経営にしろ戦にしろ外交にしろ、お金がなければ始まりません。

信秀・信長が生まれた勝幡城も、津島で得た利益を元に信定が建てたものでした。

 

寺社や将軍とのお付き合い

さらに、織田信秀自身もこれまた門前町である熱田を手に入れて、さらに財源を得ました。

熱田神宮本宮

元々は弱小である織田弾正忠家が、本家・主君である織田大和守家や周辺の大名に対抗していくために「金」という武器を手に入れたわけです。

漫画作品などで信長が「永楽通宝」の旗を使ったことがクローズアップされたりしますが、父の代からそこを重要視していたのですね。

伊勢神宮などに修繕費用を出し、主君を飛び越えて朝廷に顔を売っていくのです。

信秀が行ったとされる献金をざっとまとめますと。

信秀の献金例

◆天文十年(1541年)
伊勢外宮に銭七百貫文献上

◆天文十二年(1543年)
「内裏築地修理料」として四千貫文を献上

◆天文十六年(1547年)
禅居庵摩利支天堂(京都市東山区・建仁寺の塔頭寺院)を再建 ※天文十一年(1536年)の【天文法華の乱】で焼失していたもの

『麒麟がくる』で本木雅弘さん演じる斎藤道三が「信秀は四千貫」と言っていたのはここですね。

信秀がぬかりないのは対朝廷だけではありませんでした。

 

信長のお忍び上洛にも貢献?

織田信秀は、ときの将軍・足利義輝にも拝謁しております。

剣豪将軍として知られた13代将軍ですね。

剣豪将軍と呼ばれた足利義輝/wikipediaより引用

実は織田信長は永禄二年(1559年)、わずか80人ほどの家臣を連れ、お忍び同然に京都へ上洛したことがあります。

このとき足利義輝との面会と取り付けているのですが、過去に信秀の貢献などもあって会うことを許されたのでしょう。

こうした数々の働きにより、織田信秀はいつしか本家よりよく知られた存在になっていくのです。

なんせ前述の通り、この時期、荒れに荒れていた朝廷にお金を出しているので感謝のされようが凄まじく、大和守家どころか、その主君である尾張守護の「斯波家」よりも高い位をもらっているほどです。

「信長の父ちゃんが凄い」と言われる理由がご理解いただけるでしょうか。

 


公家との交流もマメにこなし

また、織田信秀はお金だけでなく、きちんと公家とも交流して、信頼関係を築く努力もしていました。

話が少々前後してしまいますが、ご勘弁を。

家督相続から数年後の天文元年(1532年)、信秀は、主君である織田達勝(おだみちかつ)や、同輩にあたる小田井城の織田藤左衛門と争っていました。

その講和のため、天文二年(1533年)に公家の飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)を招いたことがあります。

飛鳥井家は先祖・難波頼輔が蹴鞠の名手だったことから、代々蹴鞠をお家芸とする公家です。

現代でも、飛鳥井家の屋敷跡に白峯神宮が作られ、蹴鞠から転じてサッカー、そして球技やスポーツ全般にご利益があるとして信仰を集めていますね。

白峯神宮の鞠庭/wikipediaより引用

このときの客人の一人であり、この後も信秀や信長と深く交流する山科言継(やましなときつぐ)の日記『言継卿記』によると、信秀はまず7月8日に勝幡城で蹴鞠会を開き、7月27日には清州城でも連日蹴鞠会を行っていたのだとか(これまたドラマでも同シーンが!)。

見物人も数百はいたそうなので、当時としては結構盛り上がって楽しい見世物だったのでしょう。

となると、庶民としては「こんな楽しいものを見せてくださる信秀様はいい方だ」と思うわけです。

 

信長が使った「勅命による講和」

人心を得られれば、巡り巡って商売も戦もしやすくなっていきます。

また、皇室にパイプを作れば、いざというときに「勅命による講和」を引き出すことも不可能ではありません。

織田信秀自身はこの手を使ったことはないのですが、息子の織田信長が包囲網を敷かれたときなど、後に何度か用いていますね。

信秀にどの程度、皇室や公家を重んじる気持ちがあったのかはわかりませんが、そうした深謀遠慮があったことは間違いないかと。

ちなみに、信秀が公家との交流を深め始めたのと、信長が生まれたのはほぼ同時期にあたります。

天文三年(1534年)5月生まれの織田信長/wikipediaより引用

それまでも側室の子(織田信広など)はいましたが、正室との子が生まれるのに合わせて、信秀は次世代のことを考えるようになっていたのかもしれません。

「早めに次世代のことを考えて備える」あたりも、信長と似通ったところがあります。

山科言継としても、朝廷の財政難を救うためにわざわざ地方周りをしていた人なので、信秀のようにきちんとした扱いと献金をしてくれる大名の存在は、ありがたかったでしょう。

信長の時代になっても、言継とのお付き合いは続いています。

 


三河の松平へ攻め込んだり 美濃の蝮とやりあったり

八面六臂な織田信秀の有り余るパワーは、さらに拡大していきます。

弟達に城を与えたりしながら、培った戦力を織田の本家や主君・斯波家の乗っ取りに向かうのではなく、他の地域へ向けました。

この辺がエライというかうまいというか。

後々、信長の時代に「織田大和守家vs斯波家」のイザコザが起きたとき、偶然他の場所にいて助かった斯波家のお坊ちゃんが、信長のところへ逃げてきています。

信長はこのお坊ちゃんこと斯波義銀をお神輿にして、また戦略を練っていきました。

もしトーチャンの時代に斯波家ともめていたら、この展開はなかったでしょう。

さらに信秀は、お隣・三河で松平清康(徳川家康の祖父)が不慮の死を遂げる【森山崩れ】という事件が起きると、その隙をつくため三河に攻め込みます。

しかし、そのことで「東海一の弓取り(武士)」こと今川義元と真っ向から対立することになりました。

今川義元(高徳院蔵)/wikipediaより引用

それだけではありません。

お隣・美濃では「蝮」と呼ばれる斎藤道三が下克上を成功させており、新たな敵となってしまいます。

織田家の尾張から見て美濃は北になりますが、こちらでは城を取ったり取られたり一進一退が続くようになります。

その上、家中では長男をうつけ呼ばわりして、アレコレ良からぬことを企み始める輩が出始めるわ、身内の反乱が起きるわ。

信秀にしてみれば、まさに内憂外患といった状況に陥っていきます。

まぁ、半分くらいは自分で種蒔いてる気がしますが。

 

「斎藤家の姫をもらって和睦の道を開け!」

織田家は、東に位置する今川家にも押され始め、何とかして打開を図らねばなりませんでした。

そこで織田信秀が「信長の爺や」こと平手政秀に命じたのが、

【斎藤家の姫をもらって和睦の道を開け!】

というものです。

要は、縁談ですね。

じいやの頑張りによってこれがうまくいき、斎藤道三の娘・帰蝶(濃姫)が信長の元に嫁いでくると、ひとまず美濃方面は片付きました。

清洲城・模擬天守の横にある濃姫(帰蝶)像

この婚姻は、信長の「嫡男としての立場を盤石」にする意味もあったと思われます。

というのも織田家では、信秀の死後、織田信長と織田信勝(信行)の兄弟が家督を争うということがありました。

彼らの母は共に土田御前。

二人とも正室の息子ゆえに後継者としての資格があり、例えば重臣の柴田勝家なども当初は織田信勝派だったわけです。

しかし、そんな信長のもとに帰蝶が嫁いできました。

帰蝶個人に織田弾正忠家の家督うんぬんは関係ありませんが、

【“嫡子の正室”が隣国との和平の楔である】

ということは、極めて重要です。

信長が不慮の事故等で亡くなったなどの致し方ない理由で、弟の織田信勝に再嫁する……というならばともかく、信長が無事なのに廃嫡してしまうと、帰蝶の立場がなくなってしまいます。

だからといって実家に送り返しでもすれば、今度は道三(斎藤家)に対して「お前との戦を再開するから、娘は返すわ^^」とケンカを売るも同然。

要は、斎藤氏との関係を強調することで、信長の家督継承を円滑にする狙いだったのかと。

となると信秀は、信長の底知れぬ才能を見抜いていた可能性もあり、それを弟の織田信勝にもよく説得しておけば、謀殺事件なども起きなかったのかもしれません。

斎藤道三/wikipediaより引用

 


20人以上の子供がおり

斎藤家との和睦を果たした織田信秀は、今川家を攻めあぐねていたところで、亡くなってしまいます。

没年には諸説あります。

天文十八年(1549年)11月に信長が信秀の代理として、熱田に制札(せいさつ/寺社などに立てる箇条書きの禁令)を出しています。

この時点で、少なくとも家中には「信秀の体調が優れない」ということが知られていたのでしょう。

一説には40過ぎてなお、昼も夜もお盛んだったために命を縮めたともいわれますが、はてさてどうだったやら。

確認されているだけで信秀には20人以上の子供がいますので、あながちナイとも言い切れませんね。

なお、信秀の葬儀で「信長が焼香を投げつけた」という有名なエピソードがありますが、これまた『信長公記』に記されています。

よろしければ以下の記事をご参照ください。

織田信秀
焼香投げつけた直後に政秀が自害|信長公記第9話

続きを見る

 

もし生きていれば天下を目指したのか?

信長の父である織田信秀は、天下を意識していたのか?

天下の範囲設定が難しく、あくまで個人的な妄想ですが、もしも生きたまま【桶狭間の戦い】(永禄三年=1560年)まで時代が進んでいたら、少なからず信秀も意識しのではないでしょうか。

毛利新助と服部小平太が襲いかかる(作:歌川豊宣)/wikipediaより引用

いったんは揉めた斎藤家と和睦。

今川家には戦と外交手段を使い分けて対応している様子は、単なる暴れん坊ではないキレ者の姿を彷彿とさせます。

信長と親子で事にあたった可能性もおありでしょう。

もちろん「船頭多くして船山に登る」という考え方もありますが、合理的な性格の信長でしたら、信秀もまたそういう性質であったことが考えられ、なかなか楽しい親子コラボになった気がします。

てなわけで、信秀の功績や人柄をまとめてみますね。

信秀の凄いとこ

・経済力を重視する

・目的に合わせて柔軟に居城を変える

・朝廷や公家にも適度に接近し、パイプを保っておく

・子供も適度に作っておく

・ときには派手な催しをし、人心を掴む

いずれも信長に共通するスタンスではありませんか?

信長の強烈な部分のイメージが強すぎて、現代人からすると意外ですが、似た者親子ともいえます。

こうしてみると、信秀に関する最も有名な「信長が、信秀の位牌に抹香を投げつけた」というエピソードは、やはり父への親愛の裏返しなのでしょう。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典
太田 牛一・中川 太古『現代語訳 信長公記 (新人物文庫)』(→amazon
日本史史料研究会編『信長研究の最前線 (歴史新書y 49)』(→amazon
谷口克広『織田信長合戦全録―桶狭間から本能寺まで (中公新書)』(→amazon
谷口克広『信長と消えた家臣たち』(→amazon
谷口克広『織田信長家臣人名辞典』(→amazon
峰岸 純夫・片桐 昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon
『事典にのらない戦国武将の死の瞬間 (別冊歴史読本 (31))』(→amazon
織田信秀/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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