織田信秀

萬松寺の織田信秀木像(愛知県名古屋市)/wikipediaより引用

織田家

織田信秀(信長の父)は経済も重視した勇将~今川や斎藤と激戦の生涯

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信長のお忍び上洛にも貢献?

織田信秀は、ときの将軍・足利義輝にも拝謁しております。

剣豪将軍として知られた13代将軍ですね。

足利義輝
刀を握ったまま斃れる壮絶な最期~足利義輝13代将軍の生涯30年まとめ

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実は織田信長は永禄二年(1559年)、わずか80人ほどの家臣を連れ、お忍び同然に京都へ上洛したことがあります。

このとき足利義輝との面会と取り付けているのですが、過去に信秀の貢献などもあって会うことを許されたのでしょう。

※ちなみにこの上洛時に斎藤義龍が信長へ刺客を放っています(詳細は以下の記事へ)

京都上洛の信長に向け義龍が放った刺客! どう対処した? 信長公記31話

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こうした数々の働きにより、織田信秀はいつしか本家よりよく知られた存在になっていくのです。

なんせ前述の通り、この時期、荒れに荒れていた朝廷にお金を出しているので感謝のされようがハンパなく、大和守家どころか、その主君である尾張守護の「斯波家」よりも高い位をもらっているほどです。

「信長の父ちゃんが凄い」と言われる理由がご理解いただけるでしょうか。

 

公家との交流もマメにこなし

また、織田信秀はお金だけでなく、きちんと公家とも交流して、信頼関係を築く努力もしていました。

話が少々前後してしまいますが、ご勘弁を。

家督相続から数年後の天文元年(1532年)、主君である織田達勝(おだみちかつ)や、同輩にあたる小田井城の織田藤左衛門と、信秀は争っていました。

その講和のため、天文二年(1533年)に公家の飛鳥井雅綱(あすかいまさつな)を招いたことがあります。

飛鳥井家は先祖・難波頼輔が蹴鞠の名手だったことから、代々蹴鞠をお家芸とする公家です。

現代でも、飛鳥井家の屋敷跡に白峯神宮が作られ、蹴鞠から転じてサッカー、そして球技やスポーツ全般にご利益があるとして信仰を集めていますね。

このときの客人の一人であり、この後も信秀や信長と深く交流する山科言継(やましなときつぐ)の日記『言継卿記』によると、信秀はまず7月8日に勝幡城で蹴鞠会を開き、7月27日には清州城でも連日蹴鞠会を行っていたのだとか(これまたドラマでも同シーンが!)。

見物人も数百はいたそうなので、当時としては結構盛り上がって楽しい見世物だったのでしょう。

となると、庶民としては「こんな楽しいものを見せてくださる信秀様はいい方だ」と思うわけです。

 

信長が使った「勅命による講和」

人心を得られれば、巡り巡って商売も戦もしやすくなっていきます。

また、皇室にパイプを作れば、いざというときに「勅命による講和」を引き出すことも不可能ではありません。

織田信秀自身はこの手を使ったことはないのですが、信長が包囲網を敷かれたときなど、後に何度か用いていますね。

信秀にどの程度、皇室や公家を重んじる気持ちがあったのかはわかりませんが、そうした深謀遠慮があったことは間違いないかと。

ちなみに、信秀が公家との交流を深め始めたのと、信長が生まれたのはほぼ同時期にあたります。

※信長は天文三年(1534年)5月生まれ

それまでも側室の子(織田信広など)はいましたが、正室との子が生まれるのに合わせて、信秀は次世代のことを考えるようになっていたのかもしれません。

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「早めに次世代のことを考えて備える」あたりも、信長と似通ったところがあります。

山科言継としても、朝廷の財政難を救うためにわざわざ地方周りをしていた人なので、信秀のようにきちんとした扱いと献金をしてくれる大名の存在は、ありがたかったでしょう。

信長の時代になっても、言継とのお付き合いは続いています。

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