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【大友宗麟(義鎮)】
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離反者が続出し四面楚歌に陥る
実は和平締結の2年前、大友家臣として秋月文種の征伐などに功績を挙げていた高橋鑑種(あきたね)が、ひそかに毛利への内通を決意。
彼の裏切りについては軍記物などで様々な理由が述べられていますが、個人的には毛利と大友を天秤にかけた結果、生き残り戦略として毛利を選択したと思われます。
鑑種の裏切りは、戦略面だけでなく精神面でも宗麟に大きなショックを与えました。
「信頼していたし、可愛がって育ててきたのに、その恩を忘れて裏切るとは…(´・ω・`)」
そんな風に心情を吐露したとも伝わります。
毛利による裏切り工作は和平締結後も公然と行われ、もはや宗麟も黙っていられません。講和の取り決めを無視してふたたび毛利氏との戦を決意します。
永禄8年(1565年)、尼子氏を追い詰めるため家臣を総動員し、毛利の守りが手薄になったことを知った宗麟は、毛利方に内通した国衆を成敗する形で反撃に出ました。
ところが、コトはそう簡単に進みませんでした。
翌年、尼子氏との合戦がひと段落した毛利氏は、ついに全力を投じて豊筑攻略に乗り出したのです。
毛利の動きに呼応する形で高橋鑑種も挙兵し、さらに周辺エリアの敵対勢力だった筑紫広門・龍造寺隆信・秋月種実らも行動を起こしました。
まるで信長包囲網のように宗麟を取り囲む元就。
四面楚歌のピンチに追い込まれた大友軍は、勇猛な家臣たちの働きでどうにか一進一退の攻防を繰り広げます。
しかし、ついには筑前一国を失いかける情勢となり、さらには立花鑑載(あきとし)という家臣が高橋方に与してしまうという危機的状況に陥りました。
そこで奮起したのが勇将として知られる立花道雪。
立花城を占領し反旗を翻す立花鑑載に対し、永禄11年(1568年)に同城を急襲。総攻撃の末に鑑載を敗走させます。
それでも戦況は好転しません。
同年には豊前松山城で合戦が勃発し、ここで優位に立った毛利軍は立花城の奪還を目指して攻め込みました。
大友軍もよく粘りましたが、最終的には戦いに敗れ、城を明け渡して兵をいったん城外まで撤退。
停滞した状況を崩すべく両軍共に調略工作を進めていると、これまで幾度も毛利と大友の命運を左右してきた尼子氏がまたもや動くのです。
永禄12年(1569年)、毛利氏に敗れ京都に隠れていた尼子勝久を要して、山中鹿介(山中幸盛)が挙兵、出雲へ乱入して尼子再興を目指し暴れまわりました。
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尼子に加えて、毛利に敵対する国衆や大内氏の関係者も呼応し、ついに毛利氏は九州攻略を断念します。
こうして、長年にわたる大友対毛利の「北九州ラウンド」は、宗麟の判定勝ちで幕を閉じたのでした。
ただし、依然として門司城は毛利の手中にあり、ひとまず恭順を表明した高橋鑑種も隙あらば裏切りの構えを見せるなど、完全に安心できない情勢にあったことも事実です。
西からは龍造寺 南からは島津
これまで宗麟を苦しめてきた毛利氏も、この後は九州に影響を及ぼすことができなくなっていきました。
新勢力の台頭――織田信長です。
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東海地方から畿内にかけて勢力を急拡大させている織田軍が西国への侵攻をジワジワと進めてきました。
しかも元亀2年(1571年)には元就が亡くなり、以後は家の存亡を賭して信長との対峙に追われます。北九州どころの話ではなくなっていました。
こうなると俄然大友の有利。宗麟もさぞかしほくそ笑んだろう……と思いきや、天正年間に入って病気がちになってしまいます。
大友家では嫡男の大友義統が政務に携わる機会が増え、遅くとも天正4年(1577年)までには息子への家督継承と宗麟の隠居が進められました。
ただし、家督継承後も宗麟が実質的な支配権を得ており、現役を完全に退いたわけではありません。
以後は病気をおしながら政治に携わっていたと考えられています。
そうまでして働かねばならない理由は、九州西部と南部にありました。
急成長を遂げる竜造寺家と、悲願の薩摩統一を成し遂げた島津家が、迫ってきていたのです。
毛利という厄介な相手に戦いを強いられていた大友家は、新たな敵対勢力への対処が遅れてしまいました。
しかも致命的でした。
島津家との間で【耳川の戦い】に発展し、大友の歴史に残るような大惨敗を喫してしまったのです。
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キリスト教に傾倒しすぎて……
耳川の戦い以降、有力な家臣を次々と失った大友勢力はかつての勢いが見る影もないほど衰退し、九州の覇権争いから脱落しました。
残された家臣らの中でも裏切りが頻発し、その対処に追われる日々です。
病気がち、かつ家臣団の離脱に心を悩ませたのか。
この頃から宗麟は仏教に見切りをつけ、キリスト教に傾倒していったと言われます。
もともと御曹司として育ち、挫折を味わったときも心許ない行動が指摘された宗麟。
日向国に「キリスト教国家」を樹立しようと構想していたことも指摘されており、こうした過度なキリシタン思想が、家臣や息子・義統との分裂を招く一因になったという説もあります。
残念なことに後継者である義統に当主としてのセンスがなかったらしく、重臣らが宗麟の現役復帰を願っていたという記録が宣教師ルイス・フロイスによって残されています。
キリスト教保護に熱心な宗麟を擁護するのは、フロイスにとってビジネス的な意味合いもあったでしょうが、家臣団が分裂しかけているのは間違いなかったことでしょう。
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急激に崩壊しつつある大友帝国。
薩摩からの九州北上をはかる島津氏は、急伸していた龍造寺氏さえも打ち破り、その勢いはとどまるところを知りません。
もはや脅威は眼前。大友氏の滅亡は時間の問題かに思われました。
秀吉によって窮地を救われ、滅亡を免れて生涯を終える
続発する国衆や家臣らの反乱。
日の出の勢いの島津氏。
まさに危機的状況を迎えていた大友氏ですが、そこに救いの手を差し伸べた人物がおりました。
天下人として大坂に君臨していた豊臣秀吉です。
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天正13年(1585年)、秀吉は、大友義統と島津義久、毛利輝元に停戦を命じ、従わない場合は征伐も辞さない構えを見せました。
圧倒的劣勢の大友家にとっては願ってもない命令であり、天正10年(1582年)ごろから津久見に隠居し、ひっそりとキリスト教生活を送っていた宗麟も自ら大坂へ出向き、秀吉と面会します。
一方、島津義久は「こんな猿に命令される覚えはないわ!」と停戦令をはねのけ、
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秀吉は九州征伐を決意。
まず手始めに九州へ上陸させた仙石秀久らの豊臣四国連合軍は、島津氏によって返り討ちにされますが【戸次川の戦い】、その後、豊臣秀長らの本隊が登場すると状況は一変します。
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苦戦が続いていた大友義統らも、秀吉軍の到着によってなんとか危機を脱し、最終的に豊後一国と豊前の一部を保証され、豊臣臣下の一将として地位を認められたのです。
御家の危機回避を見届けたことで緊張から解放されたのでしょうか。
宗麟は天正15年(1587年)、図ったかのように生涯を終えました。
享年58。
宗麟は名君なのか、暗君なのか
良くも悪くも強烈な存在感を放った大友宗麟の生涯は、同時代および後世でさまざまな評価を下されます。
興味深いのは、良いものから悪いものまで多種多様な点でしょう。
中には性格や能力だけでなく身体の特徴までもが180度異なるような記述がみられることです。
例えば、江戸時代前期に編纂された歴史書『豊府紀聞』では「政道理にかない、国を治め民を服した」と、彼が名君であったという描かれ方になっています。
一方、彼は実に好戦的で野心を抱く独裁君主としての一面も確認できるなど、いかにも「戦国大名」というイメージを与えられます。
しかし、江戸時代中期の『大友記』では、「他人の妻に手を出すほど好色な人物で、酒池肉林におぼれ家を崩壊に導いた暗君」として描かれているのです。
さらに、彼が生前関わった宣教師たちの証言を見てみると、上記とはまた異なった人物像が確認できます。
宣教師らによれば、宗麟は敬虔な信徒にして実に聡明であり、「東洋の名君」と評されています。加えて「体質が弱く、虚弱であった」という指摘もなされており、やはり前述の人物像と相違する点は多いです。
前述のように宣教師たちが宗麟を「持ち上げる」のは当然であり、高評価は割り引く必要もあるでしょう。
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以上のような話を整理して見えてくること。
それは宗麟が「対面する人の立場や出会った時期によって、大きく評価の変わる人物」ということではないでしょうか。
例えば、8か国の守護に就任した絶頂期であれば、彼は好戦的で野心家な人物に見えるでしょうし、家を崩壊させた後であれば、家中をまとめきれなかった暗君になるでしょう。
同時に、若かりし頃は仏教を積極的に庇護していた一方、晩年はキリスト教に傾倒したという事実からも評価が一変します。
特に、晩年の彼は「寺社を破壊しキリスト教にかまけた暗君」と言われがちです。
が、寺社の破壊活動については誇張されている点が多いほか、キリスト教の精神に基づいて府内に民衆用の病院を築くなど、ホスピタリティを感じさせる先進的な部分がみられたのも事実です。
今後も、彼の評価は時代や社会に左右されるのかもしれません。
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文:とーじん
【参考文献】
『国史大辞典』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
外山幹夫『大友宗麟 (人物叢書)』(→amazon)
竹本弘文『大友宗麟』(→link)