大友宗麟(大友義鎮)

大友宗麟(大友義鎮)/wikipediaより引用

大友家

戦国九州の王者か非道の暗君か?大友宗麟(義鎮)58年の生涯まとめ

戦国武将の評価は、おぼろげなものです。

梟雄としてお馴染みの斎藤道三が、実は親子二代で下剋上を果たしていたことが大河『麒麟がくる』でも描かれたり。

かつてフィクション作品で残虐無道に描かれがちだった織田信長の人間的な側面が見直されたり。

虚構の存在かと危ぶまれていた山本勘助の実在が証明されたり。

史料の発見や見方一つで劇的に変わるものですが、今なお人によって大きく評価の分かれる戦国大名がおります。

大友宗麟(義鎮)――。

キリシタンでお馴染みの宗麟は、九州の半分を制圧した超デキる人と称賛されることもあれば、非道な行為を繰り返し最後は滅亡しかけた暗君だと指摘する声もある戦国大名です。

いったい宗麟とはどんな人物だったのか。

その生涯を追ってみましょう。

 


待望の嫡男だった大友宗麟(大友義鎮)

大友宗麟(大友義鎮)は享禄3年(1530年)1月3日、大友家当主・大友義鑑(よしあき)の長男として生まれました。

母は大内義興(よしおき)の娘。

この母の確かな出自からして、最初から家を継ぐ嫡男として期待されていたようです。

父の義鑑が当時としては高齢の30歳を過ぎてから授かった待望の子宝であり、「御曹司」のような扱いを受けていたとか。

後世の軍記物にみられる宗麟の特徴としては、「武芸を好み、学問には興味を示さなかった荒々しい少年」というような記載が目立ち、よく言えばわんぱく、悪く言えば乱暴な少年像が浮かんできます。

以後、すくすくと成長していった宗麟ですが、天文19年(1550年)、彼の人生を一変させる事件が起きます。

父・義鑑が家臣二名の襲撃によって重傷を負わされ、間もなく死去するという【大友二階崩れの変】が勃発したのです。

絵・小久ヒロ

父の死によって、嫡男である宗麟が家督を継承することになりました。

通常、父が暗殺されたとあれば、嘆き悲しむのが息子の姿でしょう。ところが、この事件はそう単純なものでもありません。

父の死と家督継承の裏側では、大友家中に渦巻いていた「お家騒動」が関係していたのです。

 


大友二階崩れの変 その真実は?

実は父の義鑑(よしあき)はその頃、予定通り宗麟に家督を継承させる気を失っておりました。

後から生まれた三男・塩市丸(しおいちまる)をいたく気に入り、宗麟を廃嫡したうえで彼に家督を継承しようと考えていたようでした。

塩市丸の後ろ盾には、側室であった塩市丸の母や家臣・入田親廉らの勢力がおり、義鑑に家督継承を後押ししていたのです。

しかし、この風潮を知った宗麟派の家臣たちは当然黙っていられません。

宗麟の廃嫡に公然と反対した重臣は4人いたと言われ、なんとそのうちの2名が義鑑によって殺害されていたのです。

残された津久井美作守と田口新蔵人両名は、

「このままジッとしていれば俺たちに明日はない」

と考えたのでしょう。

彼らは一か八かの賭けに出ました。

宗麟が湯治のため本拠を離れた隙に義鑑を斬り、かつ塩市丸やその母などをまとめて殺害したのです。

切られた義鑑は息も絶え絶えながら「宗麟に家督継承を継がせる」という遺言を作成し、程なくして亡くなったと伝わります。

大友二階崩れの変は、一般的に「わがままな宗麟が義鑑に嫌われ、聡明な塩市丸が代わりに推挙された」というような説明がされがちです。

しかし実情は、好き嫌いの問題ではなく「大友家の家臣も絡んだ権力闘争」というのが妥当に思えます。

一見すると、宗麟は事件に関与していないようにも見えますが怪しいですよね。

なんせ事件により最も得をした一人が宗麟です。

遺言を含む事後処理などがあまりにもスムーズだったことから、すべて宗麟の手によって仕組まれた事件という指摘も存在します。

 


叔父・菊池義武の挙兵

血みどろの家督継承争いを制して、大友家の当主となった宗麟。

最初に着手したのは、入田親廉(いりたちかかど)ら塩市丸派を含む反対勢力の一掃でした。

家臣の斎藤鎮実や立花道雪らに命じて入田家の居城を攻めさせると、入田親廉・入田親誠(ちかざね)親子は親戚にあたる阿蘇惟豊(あそこれとよ)を頼って落ちのびようとします。

が、親廉は居城で切腹。あらかじめ宗麟と結んでいた惟豊の手によって親誠も討たれることになりました。

親廉は大友家の中でも重要な役職である加判衆(かはんしゅう)を21年も歴任した重臣であり、宗麟からしてみれば実権を握る敵対的な有力者を首尾よく粛清したことになります。

この流れからして大友二階崩れは宗麟にとって「好ましい出来事」だったことが見て取れますね。

しかし、身内の絡んだトラブルは続きます。

かつて父・義鑑と争い、肥前国へ亡命していた叔父の菊池義武が、二階崩れ後の混乱に乗じて挙兵したのです。

当初は菊池勢に押される展開となるものの、家臣らの活躍や敵方の内応によってこれに勝利。

敗北した義武は親戚である相良氏を頼って落ちのびますが、天文23年(1554年)に宗麟から「和睦」と称して呼び出され、自害に追い込まれた(あるいは殺害された)と伝わります。

なにやら血生臭い――そうした状況はまだ続きます。

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