“蛍大名”と呼ばれる京極高次(たかつぐ)をご存知でしょうか?
『ホタルだなんて、雅なあだ名やわ~』
一瞬そんな風に思われるかもしれませんが、実はまったく違う理由でこのようにいわれています。
彼は女性の縁者に助けられることが多かったため、
【女の尻のおかげ(七光り)で、出世したヤツ】
という実に不名誉かつ品のない言い方をされてしまったのです。
いつの時代も悪趣味なあだ名をつける人はいるんですね。
実際のところは、高次自身も幼い頃から織田信長や豊臣秀吉ら錚々たるメンバーに囲まれ、いろいろ頑張っておりましたので、汚名をすすぎたい人物の一人。
そこで本稿では、慶長14年(1609年)5月3日に亡くなった京極高次の生涯を振り返ってみたいと思います。
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室町幕府の名門に生まれた京極高次
もともと高次の生まれた京極家は、室町時代の【三管四職】と呼ばれる家の一つでした。
簡単に言うと室町幕府のエリート一家。
「管」は幕府No.2の管領、「職」は軍事・警察機能のトップを示し、本来であれば高次も、幕府の要職につく家の出というワケです。
が、応仁の乱以降は他の名門と同じくすっかり落ちぶれておりました。
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元は自領のパシリ的な位置だった浅井家(信長の義弟・浅井長政の家)に立場をひっくり返されているくらいですので、その凋落振りが窺えるでしょう。
まぁ。高次が生まれる前の話ですので、彼のせいではないんですが。
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順調ならば織田家の重臣だった?
高次は、小さい頃に織田信長のところへ人質に出されています。
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真面目に仕えていたようで、10歳の頃には5,000石もの領地をもらっていましたから、さほど待遇は悪くなかったのではないでしょう。
信長の嫡男・織田信忠とも歳が近く、そのまま順調に行けば織田家の重臣になれたと思われますが、残念なことに【本能寺の変】でその道は絶たれてしまいます。
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このとき高次は妹の嫁ぎ先が明智光秀についたため、その縁で自分も光秀に協力しました。細川家とは真逆の道を選んだわけですね。
そして結果は皆さんご存知の通り……。
明智光秀は、山崎の戦いで豊臣秀吉に滅ぼされてしまい、高次は身分を隠して一時野に下りました。
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妹の旦那も自害に追い込まれています。
名門お姫様大好き♪の秀吉が妹を気に入る
次に高次が姿を現すのは、本能寺の変から二年後のこと。
名門好きの秀吉が高次の妹を気に入り、側室にしたことで彼の運が開けました。
妹が「うちのお兄ちゃんはアナタに逆らいましたが、あのときは仕方がなかったのです」と秀吉に口添えしてくれたのです。
秀吉は秀吉で、まだ天下統一の前で人手が欲しい時期でしたから、名門かつそこそこ実績のある高次をあっさり許しました。
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高次もこれに応え、九州征伐で功を挙げてめでたく大名になります。
そして、浅からぬ縁のある浅井家の娘・お初と結婚します。
信長の妹・お市の方と、浅井長政の間に生まれた浅井三姉妹、その次女ですね。
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京極高次と浅井三姉妹のお初――特に夫婦仲のエピソードはないようですが、子供がいない割には不仲という話もありません。
従兄妹同士で歳も近く、また同郷の出ですからそこそこ話は合ったんじゃないですかね。
お初の姉・淀殿が秀頼を産み……
しかし、この結婚のせいで高次は”蛍大名”といわれるようになってしまいます。
お初の姉は淀殿(茶々)。
そして秀頼が生まれてからの秀吉が、彼女に激甘だったことは想像に難くありません。
この二点から
「高次は奥さんと義理のお姉さんを通して、秀吉に媚を売ったに違いない」
↓
「女の尻のおかげで出世とはいいご身分よなwww」
というわけです。品がないなあ。

絵・富永商太
高次には関係ないんですけども、秀吉存命中の「蛍」に関する話がもう一つあります。
ついでですからご紹介しますと……。
ボケの始まった秀吉が【奥山に 紅葉踏み分け 鳴く蛍】という季節感も生態も無視した歌を詠み、勇気ある人がツッコんだところ、秀吉の八つ当たりを危惧した細川藤孝(細川幽斎)がフォローして事なきをえた――というものです。
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結局、細川藤孝のチートっぷりが際立った、という話ですね。
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