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【龍造寺隆信】
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家督を継ぎ大内氏を頼ろうとしたら
かくして、眼前の危機はどうにか乗り越えた龍造寺家。
依然として緊急事態であることに変わりはありませんでした。
一門衆は数多く殺害されてしまい、一族全体の後継者が不足してしまっていたのです。
更には、龍造寺の看板を背負ってきた家兼も、天文15年(1546年)には93歳となり、日に日に衰弱が目立っていきました。
年齢からして当然のことで、家兼は、死に際して次のような遺言を残します。
「隆信は性倜儻(てきとう:才気がはるかに優れているの意)にして大器を有す。向後当家を興すのは彼の者である。時をもって還俗させよ」
これには家臣らも迷いながら、最終的には龍造寺隆信を水ヶ江龍造寺氏の後継者に指名します。
後継者の決定に際しては、一族の神社である龍造寺八幡宮で三度くじを引き、いずれも「隆信」という結果だったという伝説が残されているほど。
まるで足利義教の将軍就任ですが、話半分で見ても、とにかく隆信が歴史の表舞台に登場したことは間違いありません。
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この頃の隆信は、運にも恵まれていました。
水ヶ江龍造寺氏の当主となってから2年後の天文17年(1548年)。
龍造寺宗家の当主・龍造寺胤栄が後継ぎを残さないまま亡くなり、宗家の家督も継承することとなったのです。
当時の隆信はちょうど二十歳。
良くも悪くも戦国大名らしい豪胆で荒々しい性質だったとされ、一族の恨みである少弐家に敵意をむき出しにし、まだ肥前すら統一できない状態で中国・四国地方への進出を目指したといいます。
こうした姿勢は必ずしも全ての家臣団に受け入れられません。
「まだ若いからそんなトンデモないことが言えるんだよw」と冷笑され、特に別の後継者(龍造寺鑑兼)を推していた老臣・土橋栄益は反感を強めました。
そこで隆信はどうしたか?
大内義隆と結びつき、家臣の不満を抑え込もうとします。
中国地方に数カ国の勢力を有している大大名であり、この時点では同エリアへ進出するよりはるかに現実的な選択肢でした。
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しかし、ここで思わぬ事件が起きてしまいます。
大内義隆が家臣である陶晴賢のクーデターによって殺害されてしまうのです。
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いきなり当てが外れ、窮地に追い込まれた隆信。
その姿を老臣・土橋栄益は見逃しませんでした。
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土橋栄益はひそかに大友家と手を結びました。
同じく九州北部に大きな勢力を持つ大友義鎮(大友宗麟)。
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龍造寺鑑兼を担ぎ出したい栄益は、大友の援護を得て、近隣の諸勢力に隆信討伐を呼びかけたのです。
もともと厚い支持を受けていたわけではない龍造寺隆信に反発する勢力は思いのほか多く、栄益は十分な戦力を得て挙兵に至ります。
天文20年(1551年)に水ヶ江城と佐嘉城を包囲。
周辺との連絡手段を断絶された隆信や譜代の家臣らは絶体絶命の危機に追い込まれました。
もはや突破は無理だ――。
そう悟った隆信は、やむなく城を放棄して、敵に発見されないよう隠れて陣中を進みます。
そうして命からがら危機を脱した一行は、筑後の蒲池鑑盛という人物に庇護され、異国で再起の時を待つことにしました。
一方、勝利を手にした栄益は、目論み通りに鑑兼を佐嘉城主に据え、隆信の所領を家臣らに分け与えて新たな国づくりに着手します。
隆信は筑後でかなり厚遇されたようですが、野心あふれる性格の持ち主が逃亡生活を受け入れられるはずもなく、天文21年(1552年)には佐嘉城の奪還を目指して同志へ呼びかけを行います。
隆信の誘いに応じた勢力もいくつかあり、彼は早速、船で肥前へ。
このときは天候にも嫌われ、目的地へ辿り着くことできないまま撤退を余儀なくされます。
しかし、これで諦める隆信ではありません。
翌年(天文22年・1553年)、同じく船を用いて肥前へ上陸して、挙兵!
いつの間にか規模の膨らんだ隆信軍は連戦連勝で城を落とし、この勢いを恐れた佐嘉城代の小田政光は一族の居城である蓮池城へと撤退します。
城を取り返した隆信は、追撃の手を緩めはしません。
蓮池城に撤退した小田氏を攻め、熾烈な【蓮池城の戦い】に勝利すると、栄益以下の反乱分子を片っ端から粛清して家中の権力を掌握しました。
さらには周辺の諸勢力を従属させると、既に衰退の一途をたどっていた少弐家へ攻勢を強めます。
一族の恨みを晴らさんとする隆信は、かつて掲げていた「少弐家の打倒」と「中国・四国への進出」を目指すため、肥前の統一に向けた戦いに明け暮れていくことになるのです。
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