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【龍造寺隆信】
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毛利と同盟 少弐は滅亡
ついに家中をまとめ上げた龍造寺隆信。
当面の目標は肥前の統治であり、かつての主家であり、龍造寺一族を滅亡の危機に追い込んだ少弐家がターゲットとなりました。
弘治元年(1555年)、隆信は小弐冬尚の居城である勢福寺城を攻撃。
見事に勝利を収め、憎き冬尚を筑後へと追いやると、今度は、かねてから対立関係にあった肥前の有力者・神代勝利(くましろ かつとし)との戦でも勝利を収め、このまま連戦連勝で東肥前を手にするかに思えました。
しかし、討ち取るまではできなかった神代勝利が再び力を盛り返し、筑後から兵を率いて帰還すると、隆信らの前に立ちはだかります。
神代軍は山岳地帯での戦に長けた勢力でした。
隆信が神代攻略の拠点として押さえていた肥前春日山城を攻め落とされるなど、苦戦を強いられ、逆に神代が勢いをつけると、隆信はいったん攻略を中断しなければなりません。
すっかり停滞しそうになった戦線。
隆信も、このままではジリ貧になると考えたのでしょうか。
弘治3年(1557年)、陶晴賢を滅ぼした毛利元就と同盟を結びます。
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大内家滅亡の後、急激に中国地方で所領を拡大させていく毛利家は、確かに同盟相手として不足はありません。
しかし九州北部では、依然として大友勢が強く、毛利のチョイスは当時のセオリーからは若干外れた選択となるでしょう。
隆信は、大友家が北九州覇権に奔走する隙を狙い、肥前統一に注力という決断をしたようです。
一方、神代勝利も黙ってはいません。
永禄元年(1558年)、勢福寺城で少弐家を再興させようとします。
そこで隆信は小田政光を派遣し、神代や少弐を討伐しようとしました。
ただし「まだ小田は龍造寺に降伏してから日が浅い」ため、裏切りを警戒し過ぎて、一切の援軍を送らないという処断。
結果、政光らは壮絶な討ち死にを遂げたうえ、伝わるところでは「政光を見捨てたために一族から恨みを買うといけない」ということで、なんと小田家が領有していた蒲池城を龍造寺が攻め滅ぼしてしまったとも――。
この手の軍記物などに描かれた記述を整理すると「隆信、最低だな……」と言いたくなります。
しかし、実際は「龍造寺家が滅びているため後世にデタラメを書かれた」という印象も否めません。
話を戻して永禄2年(1559年)、少弐冬尚が勢福原城への帰還を試みました。
城代の江上武種(えがみたけたね)は少弐派であり、時には龍造寺家と対決することもあったのですが、もはや決断したのでしょう。冬尚の帰還を受け入れませんでした。
結果、途方に暮れた冬尚は自害を余儀なくされ、大名としての少弐氏は滅亡。
かつて龍造寺一族を裏切りによって滅ぼそうとした冬尚が、今度は当てにしていた支援者の裏切りで滅びたのでした。
大大名の大友氏が立ちはだかる
少弐氏が滅び、周辺勢力を次々に打倒。
永禄4年(1561年)、33歳になった龍造寺隆信が次に向かったのは、長年、抗争を続けていた神代勝利です。
【川上峠合戦】と呼ばれる戦いで、両軍は激闘の末、一応、隆信の勝利ということで決着がつきました。
完全勝利ではなく、最終的には和睦というカタチだったのですが、東肥前をも呑み込む快挙であり、そんな隆信に対し、周辺大名は危機感を抱いていきます。
その代表格が、大友義鎮(大友宗麟)でした。
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名実ともに九州の覇者として君臨していた大友家は、かつて敵対していた土橋栄益も後ろ盾に頼ったことのある大大名。
彼らは「少弐時尚の弟、政興を復権させる!」という名目のもと諸将を集めます。
龍造寺家も、勢いでは負けてはいません。
周辺の大名である有馬・大村連合軍を撃破し、ついに大友と直接的な対決を迎えます。
永禄7年(1564年)、大友の後ろ盾を得た少弐政興が、東肥前へやってきました。
隆信は、討伐軍を差し向けますが、筑後の国衆から手強い抵抗にあい、いったん兵を引きます。
周辺エリアの諸将は、少弐政興を担ぎ出す宗麟に同調していました。
しかし、隆信にとっても心強い援軍がありました。
毛利家です。
かねてから対立していた大友家と毛利家の間では、このころ暗黙の停戦が成立していたのですが、両者は立花城という舞台を巡ってふたたび激突。
龍造寺にとっては望み通りの展開であり、毛利勢の睨みが利く中で、戦を進めることができたのです。
睨みを利かせていた毛利が撤退
永禄12年(1569年)、大友宗麟自らが出陣して龍造寺の本拠である佐嘉城に攻めかかりました。
大友陣営には立花道雪ら歴戦の猛将たちに加え、その巨大勢力に恐れをなした諸将が集結。
龍造寺隆信は毛利家からの救援を頼りに籠城戦を選択するしかありません。
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絶対的な兵力差の前に苦戦必至の隆信は、城の守りを固める傍ら城外戦を仕掛けるなど、まだまだ諦めてはいませんでした。
なんとか攻勢をしのいでいると、救いの一報がもたらされます。
毛利が大友の拠点を襲撃する――。
急遽、これに対応しなければならなくなった宗麟。
かくして大友家の襲撃をなんとか乗り切った龍造寺勢に対し、危機はまだまだ続きました。
毛利勢が立花城攻めに大軍を遣わしている隙を突き、毛利家の足下で「再興を目論んだ尼子勢が挙兵」したのです。
尼子の再興と言えば、戦国ファンにはお馴染みの山中鹿介ですね。
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中国地方での話が九州の情勢にも強く影響していたとは意外かもしれません。
いずれにせよ尼子への対処に追われた毛利家は九州の戦線を離脱し、隆信は最大の後ろ盾を失ってしまいます。
結果、元亀元年(1570年)には再び佐嘉城を襲撃され、圧倒的な兵力差を前に絶体絶命の状況に追い込まれると、隆信は一か八かで城外戦に打って出ました。
小規模ながら勝利を収め、なんとか命を繋ぐ、苦しい展開。
苦々しいのは大友サイドも同様だったようで、なかなか城を落とせない体たらくに腹を立てた大友宗麟は、弟の大友親貞を中心とする兵を送り込み、決定的な打撃を与えようとしました。
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「もはや敵陣を奇襲するほか勝ち目はありません!」
夜襲とは、成功するからこそ後世に語られるものであり、敵に待ち構えられ失敗すれば撤退も難しく、同士討ちの危険性もあるリスキーな戦術。
それでも隆信は受け入れ、わずかな手勢を率いて敵陣を奇襲しました。
後世で【今山の戦い】と称される戦いです。
結果は大成功に終わり、龍造寺軍は、大友親貞以下の大半を討ち取るという多大な功績を挙げました。
後世で「九州戦国史を一変させた」と語り継がれるこの一戦、実態としてはあくまで局所戦であり、両家のバランスを左右するほどではなかったと言われます。
実際、敗戦の報を耳にした宗麟も、格段の動揺を見せなかったようです。
それでも戦が長期化して損害が大きくなったためでしょう。大友家は合議の末、龍造寺と和平という選択をします。
かくして隆信は、またもや人生最大の危機を乗り越えたのでした。
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