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【龍造寺隆信】
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大友の脅威を取り去った龍造寺
大友軍を打ち破った龍造寺隆信は、その後、大友へなびいた勢力の一掃に力を入れました。
東肥前では前述の江上武種らを下し、敵対していた勢力を次々と吸収。
労なくして東肥前の完全掌握に成功します。
続いて西肥前にも進出し、地元国衆たちの勢力を着々と従えていきました。
さらに天正5年(1577年)には大村氏を、天正6年(1578年)には有馬氏を打ち破り、いよいよ一族の悲願であった肥前の統一を成し遂げます。
何度も絶体絶命の危機を乗り越え、ついに一国を制した隆信。
しかし青年期のエピソードからも「野心家」であることがわかる彼は、実質的な肥前国主に甘んじることを良しとしません。
次なる目標に、筑前・筑後の攻略を掲げます。
大大名の大友家を相手に勝算が無い――ワケではありませんでした。
というのも大友は天正6年(1578年)に【耳川の戦い】で島津相手に大敗を喫していたのです。
耳川の戦いで島津軍が九州覇者へ「釣り野伏せ」で大友軍を完膚なきまで叩き潰す
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軍神とも思えるような働きをした島津家久を前に、大友の軍勢は散り散りになり、かつて味わったことのないほど大きなダメージ。
島津家久は四兄弟で最強なり! 次々に大軍を撃ち破った軍神 41年の生涯とは
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隆信はその隙をついて大友領国を襲撃します。
大友領内で動揺した者も少なくなかったのでしょう。隆信に味方する勢力も多く、かつてあれだけ苦しめられた大友家に対し、龍造寺は完全な優位性を確立しました。
「大友王国」は脆くも瓦解。
龍造寺氏はようやく大友の勢力圏から完全に自立したうえ、戦国大名としても独り立ちしたとみなされています。
彼らは筑後をほぼ平定すると、続いて肥後にも攻め入り、その大半を勢力下に収めました。
隆信はその勢力から【五州二島の太守】を自称し、九州制覇に向けて歩みだそうとします。
晩年は離反とその粛清に明け暮れ、沖田畷に没す
急激な勢力の拡大に成功した龍造寺は、いつしか大友・島津と並んで【九州三強】と称されるまでに成長しました。
しかし、急な発展は、往々にして脆いもの。
龍造寺も例外ではなく、その領国支配に崩壊が迫っていました。
天正8年(1580年)、筑後の蒲池鎮並が謀反を企てます。
すぐさま龍造寺隆信は攻撃を選択しますが、鎮並はかねてから龍造寺と関係の深い勢力でもあり、最終的には龍造寺側の説得に折れる形で矛を収めます。
この時期すでに隆信は隠居状態である一方、彼の人格面に変化が表れてきたという指摘もされます。
隆信の書状からは明らかに弛緩している雰囲気が漂い、地位を得たことによる慢心が生まれたと考えられているのです。
隆信は、やがて迷走していきました。
天正9年(1581年)、先に登場した鎮並が再び隆信を裏切ろうとし、事前にそれを察知した隆信は、鎮並を呼び出し殺害しようと企てます。
いわば騙し討ちであり、結果は成功。しかし、その卑劣な方法が世間から非難を浴びました。
龍造寺四天王の一角である百武賢兼は「この一件は家の滅亡につながる」と嘆き、さらに隆信が鎮並の一族郎党を抹殺したことが、筑後の諸将に大いなる反感を植え付けてしまうのです。
筑後の国人による反乱が相次ぎ、隆信はその制圧に労力を奪われました。
南からは九州覇権を志す島津が北上の構えを見せており、龍造寺家とも一触即発の空気が流れていました。
沖田畷の戦い
天正10年(1582年)、龍造寺と島津の間で和議が成立しました。
しかし、先に制圧していた島原の有馬氏が島津に内通すると、隆信は彼らの制圧を決断します。
鍋島直茂の制止も聞かず、自ら出陣して有馬勢の拠点へ。
この頃にはでっぷり肥えていたと伝わる隆信は、有馬氏の救援に向かった島津の援軍と合わせても、敵が小規模なことに慢心して無茶な攻撃を仕掛けたと言われます。
一説には
龍造寺25,000
vs
島津&有馬6,000
とされ、兵力差は圧倒的。
確かに兵数だけを考えれば龍造寺が圧倒的に有利な展開でした。
いわゆる【沖田畷の戦い】です。
鷹揚と進軍する龍造寺に対し、事前に入念な逆転策を練っていた島津・有馬軍は、敗北による撤退を装って龍造寺軍を狭路に誘い出します。
いわゆる島津のお家芸【釣り野伏】です。
戦闘で負けたをフリして敵軍をおびき寄せ、伏兵で一気に遅いかかるというこの戦法。
仕掛ける島津軍にしても、囮は命掛けの戦術であり、博打要素も否定できない。
さて、その結果は……。
島津の囮を追いかけ、身動きがとりづらくなった龍造寺軍。
一方、狭路の脇に伏兵を潜ませていた島津軍は、突如、龍造寺に襲いかかり、猛攻を仕掛けました。
大軍はたちまち総崩れとなり、人数の多さがあだとなった龍造寺軍は、退却すらも困難になってしまいます。
パニック状態に陥った龍造寺軍。
ついには指示も通らなくなったのでしょう、隆信は呆気なく討ち取られ、56歳の生涯を終えたのです。
【五州二島の太守】と称した隆信も、最期はあまりに唐突なものでした。
★
沖田畷における隆信の行動は、気持ちの緩みが散見されます。
晩年の書状は、やはり慢心が見られたと指摘。
その死に際から後世での評価は決して高くありません。
しかし、実質的に一代で一族の悲願である肥前の統一を成し遂げたばかりではなく、【五州二島の太守】を名乗るだけの勢力を獲得したその武勇は、もっと語り継がれてもよいのではないでしょうか。
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文・とーじん
【参考文献】
『国史大辞典』
歴史群像編集部『戦国時代人物事典』(→amazon)
三池純正『九州戦国史と立花宗茂』(→amazon)
川副義敦『戦国の肥前と龍造寺隆信』(→amazon)
他