京極高次

絵・小久ヒロ

戦国諸家

近江の戦国武将・京極高次が「蛍大名」と揶揄されてしまった理由とその生涯

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名門お姫様大好き♪の秀吉が妹を気に入る

次に高次が姿を現すのは、本能寺の変から二年後のこと。

名門好きの秀吉が高次の妹を気に入り、側室にしたことで彼の運が開けました。

妹が「うちのお兄ちゃんはアナタに逆らいましたが、あのときは仕方がなかったのです」と秀吉に口添えしてくれたのです。

秀吉は秀吉で、まだ天下統一の前で人手が欲しい時期でしたから、名門かつそこそこ実績のある高次をあっさり許しました。

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高次もこれに応え、九州征伐で功を挙げてめでたく大名になります。

そして、浅からぬ縁のある浅井家の娘・お初と結婚します。

信長の妹・お市の方と、浅井長政の間に生まれた浅井三姉妹、その次女ですね。

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京極高次と浅井三姉妹のお初――特に夫婦仲のエピソードはないようですが、子供がいない割には不仲という話もありません。

従兄妹同士で歳も近く、また同郷の出ですからそこそこ話は合ったんじゃないですかね。

 


お初の姉・淀殿が秀頼を産み……

しかし、この結婚のせいで高次は”蛍大名”といわれるようになってしまいます。

お初の姉は淀殿(茶々)。

そして秀頼が生まれてからの秀吉が、彼女に激甘だったことは想像に難くありません。

この二点から

「高次は奥さんと義理のお姉さんを通して、秀吉に媚を売ったに違いない」

「女の尻のおかげで出世とはいいご身分よなwww」

というわけです。品がないなあ。

絵・富永商太

高次には関係ないんですけども、秀吉存命中の「蛍」に関する話がもう一つあります。

ついでですからご紹介しますと……。

ボケの始まった秀吉が【奥山に 紅葉踏み分け 鳴く蛍】という季節感も生態も無視した歌を詠み、勇気ある人がツッコんだところ、秀吉の八つ当たりを危惧した細川藤孝(細川幽斎)がフォローして事なきをえた――というものです。

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結局、細川藤孝のチートっぷりが際立った、という話ですね。

 


家康と三成から協力を要請されて

陰口や不名誉なことを囁かれながらも、高次は真面目に働き続けました。

関ヶ原の戦いでは、徳川家康石田三成両方から声をかけられていますので、少なくともただの蛍でないということは間違いないでしょう。

どっちつかずだったと見ることもできますが、彼はその立場を存分に生かして動きます。

まず最初に、家康から「ちょっと上杉んとこ行ってくるから、大津城(現・滋賀県大津市)の守りをお願いしますね」(超訳)と声をかけられました。

ボケッとしているわけにもいきませんし、京極家として家康とのコネは保っておかないとマズそうだと判断します。

そこで弟と家臣を家康に同行させ、体面を保ちました。

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が、ここで馴染みの武将を通じて三成から「徳川を始末するんでこっちについてくださいよ!アナタ太閤殿下に恩がありまくるでしょ!」(超訳)という要請が来ます。

もし三成につかないとなると、高次は大津城で西軍全てを相手に一人で頑張らなくてはいけません。

この城は大阪から京都を通って関東方面に向かう途中に位置しており、さほど規模が大きくはなく、また兵数も多くはありません。仮に籠城しても強く粘れる拠点ではない。

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そこで高次は「まともに戦っても勝てなさそうだけど、三成が負けそうだし完全に味方するのもアレだな。よし息子を人質出して時間稼ごう」(超訳)という結論を出しました。

現代の感覚だと、人質=いかにも外道なことのように思えますが、当時はごくごく普通の外交手段の一つ。高次が特別冷たかったというわけではありません。

かくして「わかったよ三成さんにつきますよ」という態度をとりつつ、高次は篭城の備えをしながらこっそり上方の動向を家康に報告していました。

もし高次が本当に”蛍”だったら、この辺の腹芸はできなかったでしょう。

そしていよいよ西軍が出発し……。

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