西美濃三人衆の一人・稲葉一鉄(稲葉良通)/wikipediaより引用

斎藤家

【美濃三人衆】稲葉一鉄(稲葉良通)! 信長の配下になった頑固一徹な武将

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今日用いられている慣用句やことわざの中には、人名や特定の個人に由来する物が少なくありません。

例えば「頑固一徹」。

いかにも手厳しいコワモテオヤジなイメージですが、実はこれ、戦国武将だった
【稲葉一鉄(稲葉良通)】
からきているのをご存知でしょうか?

まったくもって名前そのまんまですが、となると気になるのは元ネタになった稲葉一鉄も、さぞかし頑固な武将だったのではなかろうか?というところでしょう。

実はこの一鉄。
美濃三人衆(西美濃三人衆)と呼ばれ、織田信長が美濃へ攻め込むとき、非常に重要な役どころを担った武将でもあります。

しかも大名としても一族は生き残ります。
いかなる道筋を辿って、子孫たちにバトンを繋いだのか。

一鉄の生涯を振り返ってみましょう。

※「一鉄」は出家後の号ですが、こちらのほうが馴染み深いので統一させていただきます

 

六男の稲葉一鉄は幼い頃にお寺へ預けられた

一鉄は永正十二年(1515年)、稲葉通則の六男として美濃で生まれました。

もともとの出自は、伊予国・河野氏の血を引くとされ、祖父の稲葉通貞が何らかの理由で美濃に移り住んだというのが定説であり、伊賀氏の末裔という異説もあります。

いずれにせよ六男ですから、一家を継ぐのは厳しいポジション。
一鉄は、幼い頃に崇福寺へ出され、僧侶の道を歩んでいました。

師匠は快川紹喜でした。

あの武田信玄に招かれ甲斐の恵林寺に入った名僧であり、後に「心頭滅却すれば火もまた涼し」というセリフで有名になる御方です。

当時のお寺は大学(最高学府)のような機能も有していたので、大名や有力国衆の子息が通うことはそう珍しくありません。
著名なところでは、今川義元もそうですし、足利将軍(足利義教とか足利義昭)などもそうですね。

しかし、大永五年(1525年)、突如、一鉄の運命が動き始めます。

【牧田の戦い】で、父と5人の兄達が全員、浅井亮政(浅井長政の祖父)との合戦で戦死してしまうというハードモードに直面したのです。

一鉄は、急遽、実家へ戻ることになり、祖父・通貞と、叔父・忠通に後見されて、家督と曽根城(大垣市)を継ぎました。

このとき満10歳。
つい最近まで寺にいた子供が、武家の当主になるという凄まじい展開です。

 

美濃は土岐家から斎藤家へ

実家に戻った一鉄は、土岐頼芸に仕えていました。

美濃の守護・土岐家の跡取りであり、御家騒動で何かと不運な道を歩まれる方です。
大河ドラマ『麒麟がくる』では尾美としのりさんが演じます。こう言ってはなんですが、そこそこ重要なポジションになりますので、ドラマファンの方は頭の片隅にでも……。

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というのも、この頼芸、美濃国内で跡目争いをした後、斎藤道三に下剋上を起こされ、近江へ脱出。
後に快川紹喜を頼って武田信玄のもとへ走るのです。

以降の一鉄は、道三に従うようになり「西美濃三人衆」と呼ばれる重臣の一人にまで上り詰めました。

土岐家から斎藤家へ。
戦国時代の定番である守護の移り変わりで一鉄も浮上していったのですね。しかし……。

それも長くは続きませんでした。

弘治二年(1556年)に斎藤道三と斎藤義龍の親子対立が激化すると、【長良川の戦い】へと発展してしまい、道三が破れてしまうのです。
当然、一鉄も……と思いきや、ここでは義龍の味方をしておりました。

あるいは一鉄という重臣の助力もあったので、斎藤義龍が勝てたという見方もできそうです。

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ではなぜ、一鉄は義龍に肩入れしたのか?

というと、一鉄の姉・深芳野が義龍の母だったことも影響したと思われます。
一鉄からすれば、義兄よりも、地の繋がった甥に味方したくなったのでしょう。

 

稲葉山城乗っ取り事件で甥の龍興を見限った

しかし、義龍が亡くなってその息子・斎藤龍興の代になると、雲行きが怪しくなります。
龍興の行状があまりよろしくなかったのです。

一鉄を含む西美濃三人衆(他は安藤守就と氏家卜全)は、たびたび諫言を繰り返し、それでも全く改まりませんでした。

見かねた安藤守就は、娘婿の竹中半兵衛(重治)と共に【稲葉山城乗っ取り事件】というキョーレツな手法で龍興を目覚めさせようとしますが、それでも何ら効果はありません。

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事ここに至り、龍興を見限る決断をした三人衆……。
永禄十年(1567年)に織田信長へ内応すると、電光石火で信長は動き、そして稲葉山城を攻略し、その後は三人とも織田家の家臣となりました。

織田家での一鉄は、なかなか重宝されたと見受けられます。

足利義昭を奉じて行われた永禄十一年(1568年)の上洛戦に始まり、

永禄十二年(1569年)大河内城の戦い
元亀元年(1570年)金ヶ崎の戦い
元亀元年(1570年)姉川の戦い

など、当時、織田家で行われた主な戦場へ顔を出しております。

特に【姉川の戦い】では、信長が同盟相手である徳川家康

「我が家の者も連れて行って構わない」

と言ったとき、家康が一旦断ると、信長が再び加勢を申し出て、

「ならば一鉄殿を」

そう望まれたことがあったといいます。

勇猛と忠誠で知られる三河武士から望まれる――そんな名誉を受けた一鉄を、他の織田家家臣はうらやましがったとか。
話の出典が信憑性の怪しい『名将言行録』ですが、いずれにせよ一定の評価が内外問わず高かったことの現れでしょう。

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ちなみに一鉄は、徳川勢と共に果敢に働き、織田勢のピンチにも駆けつけ、信長から勲功第一と賞されました。

しかし、そこで
「第一は徳川殿です」
と譲り、褒美として与えられた”長”の字の偏(目上の人が名前の一文字を家臣などに与えること)を断ったといいます。

結局は受け取るのですが、こういうところが「頑固一徹」のタネになったのかもしれませんね。

この後「一鉄」の入道号を用いるようになるので、姉川の戦いの前から出家するつもりでいたのでしょうか。

 

信長に暗殺されそうになった!?

偏諱を固辞したことを恨みに思っていたのか?
信長は数年後、一鉄を殺そうとしたことがあります。

しかしこれは、ねちっこく恨んでいたわけではなく、
「一鉄の野郎、裏切ってますよ」
というニセの報告があったのでした。

織田信長が伊勢(現・三重県)で長島一向一揆とやりあっていた頃の話です。

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偽の報告を聞いた信長は「もし本当なら茶席で成敗してくれる」と一鉄を呼び出しました。

茶室にやってきた一鉄はただならぬ雰囲気を感じ取り、何とか弁明しようとキッカケを探します。

しかし、狭い茶室のこと。
ただ単に申し開きをするだけでは、かえって信長を怒らせかねません。

そこで目に入ったのが、床の間にかけてあった掛け軸でした。
正確に言うと、そこに書かれた漢詩です。

一鉄の頭の中に、幼い頃、お寺で学んでいたときの記憶がふっと蘇りました。

彼のお師匠様は「心頭滅却すれば日もまた涼し」の名(迷)言で知られた快川紹喜だったので、脳みそもビシバシ鍛えられていたことでしょう。

漢詩をすらすらと読み上げ、なおかつその意味を解説しながら自分の忠誠を訴える一鉄。

これにはさすがの信長も兜を脱ぎ、「ワシが悪かった。これからも頼む」と疑いを解いたそうです。
芸ならぬ【学は身を助ける】というところでしょうか。

 

東奔西走――凄まじいまでの合戦歴

入道号を名乗るようになったといっても、一鉄はすぐに引退したわけではありません。

信長の上洛(1568年)後、何度も訪れた各地での戦いに参加し続けました。
ざっと挙げていきますと……。
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