大河ドラマ『麒麟がくる』で、地味に存在感を発揮していた土岐頼芸(ときよりあき)。
尾美としのりさんが演じたその戦国大名は、ド派手な立ち振る舞いはないけれど、ねちっこい政治&外交話ならば持ってこい――そんな印象でドラマ前半を盛り上げてくれました。
実際、史実の土岐頼芸さんは、ゴタゴタした政局に振り回された生涯を送っています。
「美濃のマムシ」こと斎藤道三に担がれ、ハシゴを外され、気がつけば甲斐へ。
天正10年(1582年)12月4日が命日となった、土岐頼芸の生涯とはいかなるものだったのか?
その史実に目を向けてみましょう。
政情不安の美濃に生まれた土岐頼芸
土岐頼芸は文亀元年(1500年)、美濃国守護職にあった土岐政房の次男として誕生しました。
室町時代の守護は言うまでもなく高い身分。
平時であれば、頼芸も安寧とした生活を送れたところでしょう。
しかし、彼の生まれた時代は不幸にも【応仁の乱】で幕府の権威が失墜していた戦国時代です。

応仁の乱が描かれた『真如堂縁起絵巻』/wikipediaより引用
さらに、美濃国といえば「下克上」の代名詞ともいえる斎藤道三が猛威を振るった地でもあり、勘のいい方なら頼芸の生涯がどのようなものになるか、既に想像がついているかもしれません。
そうです。
頼芸は土岐家のお家騒動や美濃の権力闘争まみれの生活を送るのです。
そもそも応仁の乱は、家族や親戚が敵味方ごちゃ混ぜになって戦うパターンが全国へ拡大したもの。
「裏切りと同盟があざなえる縄のごとし」で、乱そのものが非常にわかりにくい。
跡目争いは将軍家のみならず全国の守護家で頻発しており、土岐家も例外ではありませんでした。
道三の父ちゃん・松波庄五郎も台頭する
まず、彼が生まれた時期は、すでに美濃国内の権力闘争は収拾がつかない状態でした。
守護の土岐家は、明応4年(1495年)【舟田の乱】というお家騒動を巻き起こし、守護家の勢力が低下すると同時に、ドサクサに紛れて新興の家臣・長井家一族が台頭。
彼らに仕えていたのが斎藤道三の父である松波庄五郎です。
斎藤道三は、油売りから一代でのしあがった下剋上の代表とされます。
しかし、通説で伝わる道三の半生が、実はこの松波庄五郎の話だったのではないか?と指摘されていて、有力な見方となっております。
ともかく長井家と松波庄五郎(斎藤道三)の台頭がありました。

斎藤道三/wikipediaより引用
次に、土岐氏の重臣として守護代を任されていた斎藤家にも注目。
ややこしいですが斎藤道三の家系とは違う斎藤家でして。こちらの斎藤家でも有力当主や嫡子が相次いで戦死し、長井家の台頭を許す結果になっているのでした。
こうした環境の下に生まれた頼芸は、まるで事態をさらにややこしくするためかのように守護の父に溺愛され、それが原因で長男の土岐頼武と対立していくようになるのです。
いつしか彼ら兄弟の確執は政争に利用されるようになり、頼芸は長井家当主であった長井長弘や松波庄五郎に支持されると、頼武もまた守護代である斎藤家を後ろ盾とするようになりました。
図式で表すとこんな感じですね。
兄:土岐頼武 with 斎藤家
vs
弟:土岐頼芸 with 長井&松波
こうして頼芸による権力獲得への旅が本格スタートするのですが、内部分裂が多すぎて処理しきれていない方も多いかもしれません。
書いている筆者でさえ「いったい何してんだ……」と感じます。
ただ、だからこそ斎藤道三の下克上が成功したとも言えるのですね。
暗殺で敵勢力を排除した!?
後継者争いと権力闘争がセットとなったことで兄弟の対立は深刻化。
ついに永正15年(1517年)に合戦が勃発します。
この戦いは土岐政房と斎藤家の有力者である斎藤利良の争いと目されていたようで、史料を見る限りは「土岐方の大敗」つまり頼芸を支持する政房側の敗北となったようです。

しかし、政房は諦めません。
かわいい頼芸に家督を継承させるべく、敗戦からわずか半年後に再び挙兵して、今度は政房方の勝利に終わったようです。
その証拠に斎藤利良は、土岐頼武を連れ、朝倉家の越前へと逃れています。
それでも、です。
この戦で土岐頼芸が後継者に確定!とならないのですからややこしい。
永正16年(1519年)、なんとまぁタイミング悪く土岐政房が亡くなってしまうのです。
史料に具体的な記述はありませんが、敵対していた土岐頼武方にとっては都合がよすぎるため、個人的には「暗殺に近い手段が取られたのでは?」と疑っています。
朝倉家のバックアップもあり無事に家督継承
そして守護の土岐政房が亡くなってからわずか3か月後。
斎藤利良と土岐頼武は越前から帰国し、今度は大きな争いもなくそのまま家督を継承したようです。
もともと継ぐ予定の嫡男でしたし、朝倉家のバックアップもありました。
一時的にせよ頼武が守護職にあったのは、彼名義での知行書などから確認できます。
彼が在職中は美濃にひと時の平和が訪れていたようで、彼を支持した斎藤利良も別格の立場にありました。
頼武の治世によって、一応の決着がついたお家騒動。
しかし、この間にも頼芸は虎視眈々と守護の座を狙っていたのです。
大永5年(1525年)、再び挙兵した頼芸は、斎藤利良を戦死させると共に、兄の土岐頼武を没落(または死亡)に追いやって守護の座を確保しました。
ちなみに、このときの背景には浅井家と朝倉家の事情もありました。
織田信長の時代の【浅井&朝倉】は盟友として知られますが、当時は朝倉家と六角家が手を組み、浅井亮政を美濃へと追いやっていたのです。
浅井家の小谷城と美濃の稲葉山城はかなり近く、現代の道路で約57km。
浅井亮政を保護した土岐頼芸は、朝倉を支持する土岐頼武を攻める理由として合戦を挑み、念願の守護職を手にしたわけです。
かくして、ようやく彼の時代が訪れる……とはなりませんでした。
甥・土岐頼純との対立は周辺諸国に飛び火する
ようやくつかみ取った守護職。
土岐頼芸は、とりあえず治世を安定させていたようです。
史料にはしばらく名前が見えないながら、享禄4年(1531年)に書かれた文書には、美濃国内が平和な状態にあったことが推測されます。
彼の政権運営は順調に推移していたのでしょう。
ただし、全てがうまく回っていたわけではなく、天文4年(1535年)には頼芸が本拠としていた枝広館(えだひろやかた)が長良川の氾濫に伴う大洪水で流されてしまいます。
京都に伝わった噂によれば、この水害によって実に2万人余りが死亡。
災害被害はオーバーに伝えられがちですが、当時の治水能力を考えれば、大災害であったことは間違いないでしょう。
さらに、同年から美濃に、再び戦火の影が確認できるようになります。
守護の座を追われていた土岐頼武――その甥・土岐頼純が美濃に復帰したのです。
詳細は不明ながら、当時、近江に逃れていた土岐頼純が、朝倉と六角の勢力を背景にして美濃へ攻め込んだのでしょう。
戦そのものは大事には至りませんでしたが、翌天文5年(1536年)には、【土岐頼純・斎藤氏・長井氏】らの勢力と、斎藤道三の間で戦が勃発しています。
本当にややこしいですね……。
当時、斎藤道三は土岐頼芸を支持しており、敵対する土岐頼純一派が仕掛けたのでしょう。
このときは、道三も、嫡男の斎藤義龍を国外に避難させるなどの苦戦を強いられましたが、最終的に、土岐頼純を美濃・大桑城の城主として承認することで講和となり、平和を取り戻しています。
戦国時代はこうした細かい戦いの繰り返しですね。
そのうちのいくつかが、【桶狭間の戦い】とか【長篠の戦い】など、ド派手な合戦へ発展していく。
それがよくわかる展開ですね。
稲葉山城にて二頭体制が均衡していたが
館が流された土岐頼芸は、一時、道三の稲葉山城へ身を寄せていた可能性が指摘されています。
また、停戦のタイミングで頼芸は【出家】して、天文8年(1539年)には還俗し政務に復帰しました。
美濃国の講和は実に不安定なものではありましたが、それでも
・土岐頼芸&斎藤道三
・土岐頼純
という二頭体制で、仮りそめの平和は保たれていたようです。
それが崩壊するのは、停戦から4年後の天文12年(1543年)のこと。
二頭体制を「良し」としない土岐頼芸と斎藤道三が大桑城を襲撃するのです。
「数万の死者が出た」という(かなり数字の盛られた)大戦の末、土岐頼純とその母子は大桑から敗走し、尾張国の織田信秀を頼ります。
さらには、かねてから友好的な関係を築いていた朝倉家にも出兵を要請。
土岐頼純は、織田家と朝倉家という二枚の後ろ盾を得ることになるのです。
一方、土岐頼芸サイドも、危機を察知した道三の手によって浅井家・六角家の支援を取り付け、またもや美濃だけではなく周辺諸国を巻き込んだ戦の機運が高まっていきます。
このような情勢下で、頼芸は、自身の立場が危ういものとなっていくのです。
道三相手では連合軍でも攻略が難しい
頼純を支持する織田・朝倉の軍勢は、天文13年(1544年)、美濃への侵攻を開始しました。
「敵から戦利品を分捕りできるかもしれない、美濃の領地を奪えるかもしれない」
そんな欲もあいまって織田朝倉軍の勢いは当初優勢でしたが、軍勢の大半を占める織田軍は統率面がいま一つで、朝倉軍も遠路からの進軍で疲弊していたことが推測できます。
軍略家としても有能であった道三という難敵に阻まれ、美濃侵攻は一筋縄ではいきません。
緒戦となる赤坂(現在の岐阜県大垣市)における争いでは織田方が勝利したものの、後の戦を考えればこれは相手を油断させるための計略的な敗戦であったと分析できます。
その証拠に、稲葉山での戦いにおいては道三が大勝。
戦そのものも頼芸サイドにとって有利な展開が繰り広げられていきます。
そして天文15年(1546年)。
両者の間では和睦が結ばれ、織田・朝倉の両軍は目的を果たせないままの撤退を余儀なくされました。
ただし、講和の条件として土岐頼芸の守護隠居と、土岐頼純の次期守護への内定があった可能性も指摘されており、完全な勝利とは言えないものです。
というよりも。
ほかならぬ道三が、土岐頼純に娘を嫁がせていることから、仮に土岐頼芸が失脚して頼純が守護の座を得ても、斎藤家の勢力をキープできるようにしておいたのではないでしょうか。
さすがマムシです。
ところが、です。
肝心の土岐頼純が、天文16年(1547年)に急死してしまうのです。
めちゃめちゃ怪しいですよね。
何者かによる暗殺ではないか?
てか、道三でしょ?
という指摘もありますが、前述のとおり土岐頼純には娘を嫁がせる保険をかけていて、暗殺をする必要性は感じられません。
やっぱり……土岐頼芸……?
美濃の濃姫と尾張の信長が結婚へ
いずれにせよ頼純暗殺の一報を受け、黙っていられないのが、かつて美濃で苦渋を味わされた織田信秀でした。
天文17年(1548年)にまたもや美濃へ侵攻。
そして敢えなく道三の計略に泣かされますが、穀倉地帯である西美濃を奪うなど一定の効果はあげています。
すると不思議なことがおきます。
いや、歴史の必然だったのでしょうか。
織田信秀と斎藤道三が、互いの力量を評価するようになり、息子と娘の結婚に踏み切るのです。

萬松寺の織田信秀木像(愛知県名古屋市)/wikipediaより引用
そう。それこそが織田信長と濃姫(帰蝶)の婚姻です。
信長の傅役(もりやく)だった平手政秀が代理人となって話を付けたと言いますが、これは双方にとって非常にメリットのある話でした。
・織田信秀→今川との対決がやりやすくなる
・斎藤道三→ひそかに狙っていた美濃国主の座を奪うために強き敵は味方にした方がメリットある
この同盟の結果、何が起こったか?
そうです。斎藤道三に支持され保っていた土岐頼芸の立場が、いよいよ最悪なものへと追い込まれていくのです。
信長と濃姫のホンワカムードの背景で、こんな殺伐としたヤリトリが起きていたなんて……。
歴史は多角的に見た方が、やはり面白いものですね。

織田信長/wikipediaより引用
道三によって美濃を追われ、不遇の晩年を過ごす
織田家と道三が手を結んだことによって、美濃で完全に孤立してしまった頼芸。
一方の道三は、これ幸いとばかりに、頼芸を無視して【文書の発給】を始めます。
国内のトラブル(領地や山林、水産資源の争い)を処理するのは、統治者として非常に重要な仕事です。
こうした文書の発給は、公的に「私がトップである」と宣言しているようなものですし、住民・家臣がそれを受け入れれば、実効支配も問題なく進んだことになりますね。
それでも土岐頼芸は、重臣の道三に裏切られるとは予想していなかったかもしれません。
「マムシ」にそんな情が通用するはずもなく、天文18年(1549年)に道三は美濃の権力を完全に掌握、翌年には土岐頼芸を追放しました。
国を追われた頼芸は、しかし、異常なまでにしぶとかった。
過去に、粘り勝ちで守護の座を得た体験が忘れられなかったのか。
返り咲きを求めて、まずは織田信秀に道三の不義理を訴えます。
しかし、同年から病床にあった信秀がなんらかの手を打てるはずもありません。
当時、織田家の外交を担当していた織田寛近によって、にべもなく断られています。
「道三は『頼芸の追放は仕方のないことだった』と言っています。今後の詳しいことについては稲葉一鉄殿の指示を聞くように、とのことですよ」
ほとんど真剣に相手にされなかったようですね。
まぁ、それはそうでしょう。
織田と斎藤は婚姻も通じて同盟を結んでいるのに、なぜ、ほとんど縁もなく、軍も持たない土岐頼芸を助けようだなんて思うのか。
いくら必死とはいえ、こうした時勢を読めない政治外交センスからして、土岐頼芸が美濃の座を追われたことも納得できてしまいますね。
六角氏も信長に負け、今度は甲斐へ
織田に見限られた頼芸は、その後、近江・六角氏のもとへ。
この時期には出家して宗芸という名を名乗っていたようで、実弟がいた常陸国の土岐家に系図や財宝を譲り渡しています。
何かあったときのために弟に託したのか。
あるいは文化財を保護したかったのか。
そのまま六角家に滞在しておりましたが、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、その途上にあった六角氏は敢えなく敗北し、土岐頼芸は近江を去って、それから武田家のもとに身を寄せていました。
なぜ武田に?
いつからそんな縁があったのか――というと、頼芸との間を取り持ったのは快川紹喜(かいせんじょうき)という僧です。
土岐氏出身で、美濃の寺院で住職を務めた後、武田信玄に招かれ、斎藤氏との外交にも貢献。
こうした深い縁のあった快川紹喜が働きかけたのでしょう。当時は、武田家と織田家との仲も良好でした。
しかし天正10年(1582年)、信長の息子・織田信忠が甲斐討伐を始めると、恵林寺は焼き討ちに遭い、快川紹喜も殺害されます。

織田信忠/wikipediaより引用
そこにたまたま居合わせたのが頼芸です。
当時は、糖尿病が悪化したのか、本人は失明しており、その姿を哀れに思ったか、旧臣・稲葉一鉄による嘆願で土岐頼芸は許しを得ています。
その後は実に30年ぶりとなる故郷・美濃へ。
地元へ戻ることができて安心したのか、悔いを晴らせて緊張感が途切れてしまったのか。
同年中に亡くなってしまいます。
享年82。
結局、土岐頼芸は、彼と対立した土岐頼武や土岐頼純、あるいは斎藤道三らの誰よりも長生きすることとなりました。
※道三が頼芸を追放したことは、当時の価値観においても「道理に反している」と捉えられたようで、周辺諸国は道三への心象を悪化させ、後に嫡男の斎藤義龍によって攻められ【長良川の戦い】で敗死しました
★
なお、頼芸は、文化人であったことでも知られ、特に彼の手掛けた『鷹絵』は高く評価されています。
一族にも絵画を得意とする人物が多く、世が世なら家督や権力争いに明け暮れるだけでなく、画家として名声を勝ち得たのかもしれません。
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【参考文献】
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon)
木下聡『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏(岩田書院)』(→amazon)








