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【土岐頼芸】
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美濃の濃姫と尾張の信長が結婚へ
いずれにせよ頼純暗殺の一報を受け、黙っていられないのが、かつて美濃で苦渋を味わされた織田信秀でした。
天文17年(1548年)にまたもや美濃へ侵攻。
そして敢えなく道三の計略に泣かされますが、穀倉地帯である西美濃を奪うなど一定の効果はあげています。
すると不思議なことがおきます。
いや、歴史の必然だったのでしょうか。
織田信秀と斎藤道三が、互いの力量を評価するようになり、息子と娘の結婚に踏み切るのです。
信長の傅役(もりやく)だった平手政秀が代理人となって話を付けたと言いますが、これは双方にとって非常にメリットのある話でした。
・織田信秀→今川との対決がやりやすくなる
・斎藤道三→ひそかに狙っていた美濃国主の座を奪うために強き敵は味方にした方がメリットある
この同盟の結果、何が起こったか?
そうです。斎藤道三に支持され保っていた土岐頼芸の立場が、いよいよ最悪なものへと追い込まれていくのです。
信長と濃姫のホンワカムードの背景で、こんな殺伐としたヤリトリが起きていたなんて……。
歴史は多角的に見た方が、やはり面白いものですね。
道三によって美濃を追われ、不遇の晩年を過ごす
織田家と道三が手を結んだことによって、美濃で完全に孤立してしまった頼芸。
一方の道三は、これ幸いとばかりに、頼芸を無視して【文書の発給】を始めます。
国内のトラブル(領地や山林、水産資源の争い)を処理するのは、統治者として非常に重要な仕事です。
こうした文書の発給は、公的に「私がトップである」と宣言しているようなものですし、住民・家臣がそれを受け入れれば、実効支配も問題なく進んだことになりますね。
それでも土岐頼芸は、重臣の道三に裏切られるとは予想していなかったかもしれません。
「マムシ」にそんな情が通用するはずもなく、天文18年(1549年)に道三は美濃の権力を完全に掌握、翌年には土岐頼芸を追放しました。
国を追われた頼芸は、しかし、異常なまでにしぶとかった。
過去に、粘り勝ちで守護の座を得た体験が忘れられなかったのか。
返り咲きを求めて、まずは織田信秀に道三の不義理を訴えます。
しかし、同年から病床にあった信秀がなんらかの手を打てるはずもありません。
当時、織田家の外交を担当していた織田寛近によって、にべもなく断られています。
「道三は『頼芸の追放は仕方のないことだった』と言っています。今後の詳しいことについては稲葉一鉄殿の指示を聞くように、とのことですよ」
ほとんど真剣に相手にされなかったようですね。
まぁ、それはそうでしょう。
織田と斎藤は婚姻も通じて同盟を結んでいるのに、なぜ、ほとんど縁もなく、軍も持たない土岐頼芸を助けようだなんて思うのか。
いくら必死とはいえ、こうした時勢を読めない政治外交センスからして、土岐頼芸が美濃の座を追われたことも納得できてしまいますね。
六角氏も信長に負け、今度は甲斐へ
織田に見限られた頼芸は、その後、近江・六角氏のもとへ。
この時期には出家して宗芸という名を名乗っていたようで、実弟がいた常陸国の土岐家に系図や財宝を譲り渡しています。
何かあったときのために弟に託したのか。
あるいは文化財を保護したかったのか。
そのまま六角家に滞在しておりましたが、永禄11年(1568年)に織田信長が足利義昭を奉じて上洛すると、その途上にあった六角氏は敢えなく敗北し、土岐頼芸は近江を去って、それから武田家のもとに身を寄せていました。
なぜ武田に?
いつからそんな縁があったのか――というと、頼芸との間を取り持ったのは快川紹喜(かいせんじょうき)という僧です。
土岐氏出身で、美濃の寺院で住職を務めた後、武田信玄に招かれ、斎藤氏との外交にも貢献。
こうした深い縁のあった快川紹喜が働きかけたのでしょう。当時は、武田家と織田家との仲も良好でした。
しかし天正10年(1582年)、信長の息子・織田信忠が甲斐討伐を始めると、恵林寺は焼き討ちに遭い、快川紹喜も殺害されます。
そこにたまたま居合わせたのが頼芸です。
当時は、糖尿病が悪化したのか、本人は失明しており、その姿を哀れに思ったか、旧臣・稲葉一鉄による嘆願で土岐頼芸は許しを得ています。
その後は実に30年ぶりとなる故郷・美濃へ。
地元へ戻ることができて安心したのか、悔いを晴らせて緊張感が途切れてしまったのか。
同年中に亡くなってしまいます。
享年82。
結局、土岐頼芸は、彼と対立した土岐頼武や土岐頼純、あるいは斎藤道三らの誰よりも長生きすることとなりました。
※道三が頼芸を追放したことは、当時の価値観においても「道理に反している」と捉えられたようで、周辺諸国は道三への心象を悪化させ、後に嫡男の斎藤義龍によって攻められ【長良川の戦い】で敗死しました
★
なお、頼芸は、文化人であったことでも知られ、特に彼の手掛けた『鷹絵』は高く評価されています。
一族にも絵画を得意とする人物が多く、世が世なら家督や権力争いに明け暮れるだけでなく、画家として名声を勝ち得たのかもしれません。
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文:とーじん
絵:小久ヒロ
【参考文献】
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
横山住雄『斎藤道三と義龍・龍興 (中世武士選書29)』(→amazon)
木下聡『論集 戦国大名と国衆16 美濃斎藤氏(岩田書院)』(→amazon)