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【一国一城令】
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萩藩・毛利氏は自ら城を減らしていた
逆に、複数の国を治めていても、一つしか城を持たない藩もありました。
前述の萩藩・毛利氏です。
萩藩は周防・長門の二ヶ国を持っていたので、一国に一つずつ城を構えていても問題はありませんでした。
しかし、毛利氏は自ら長門の萩城だけを残し、他の城を破却して幕府に報告しているのです。
それに対する幕府の返事は
「別に一国に一つずつ城を持ってても良かったのに(´・ω・`)」(※イメージです)
という、つれないものでした。
理由は、
・毛利氏内での統制のため
・幕府への遠慮が先走ったため
など複数の説があります。たぶん両方ですかね。
毛利氏は関ヶ原の際、毛利輝元が西軍の総大将にされていたという経緯がありますので、生き残るために少々過敏になっていたようにも見えます。
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仙台藩と熊本藩でも変わった例外が
他の例外として、大名家ではなくその家臣が城を持つことを許されたケースもありました。
一つは仙台藩の白石城です。
初代藩主・伊達政宗の右腕である片倉景綱とその子孫が代々受け継いだ城。
江戸との近さもあって、家康は南東北の諸大名にはかなり警戒しています。
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伊達家はその中でも江戸に近く、また政宗の動向が油断ならないと判断されたのか、政宗と景綱を離間させる目的で白石城の存続を許したと思われます。
もう一つは、熊本藩の八代城です。
細川氏の家臣・松井氏が治めていました。
戦国時代に細川氏の家老を務めていた松井康之が、関ヶ原の戦いの際に機転を利かせて主家を守り、家康からの覚えがめでたくなったことで、名目上は徳川氏の直臣扱いになったのです。
そのため主家とは別に城を持つことが許されたのでした。
最初は麦島城という別の城にいて、元和五年(1619年)の地震で倒壊、八代城へと移っています。
仙台藩の白石城は東北の押さえとして。
熊本藩の八代城は島津氏対策として。
そんな立ち位置だったと考えられます。
一国一城令は特に、戦国時代までの事情や、その土地・大名家固有の経緯がうかがえて、深掘りするのが面白い項目。
好きな大名家があるという方は、調べてみるのも一興ですね。
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【参考】
国史大辞典
ほか