第二次川中島の戦い

武田・上杉家

たった1つの山城(旭山城)が戦の趨勢を左右 第二次川中島の戦いとは

こちらは2ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
第二次川中島の戦い
をクリックお願いします。

 

謙信よ答えてみろ 善光寺平の支配者は誰だい?

話を川中島に戻しましょう。

この頃の善光寺の本堂がある付近(犀川の北部)は、まだまだ上杉の勢力が強い地域です。

そんな地域にあって善光寺平全体が見渡せる旭山城に、栗田寛明を入れました。調略で味方にした前述の国人であり、武田方の援軍、鉄砲や武器などの援助物資と共に籠城させたのです。

敵地に張り出した地域にあってしかも山城。

最前線の「攻めの城」の位置にありながら「詰めの城(=援軍も来るよ)」でもあるという、いささか矛盾した位置付けの旭山城には、どんな意味があったのか?

ひとつは善光寺平の「占領アピール」です。

善光寺平のどこからでも見渡せる山頂に武田の旗が翻っている様子を想像してみてください。

誰が一帯の主であるか?

ひと目で知らしめるにはこれ以上の場所はないでしょう。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141203-3

善光寺本堂。善光寺平の政治経済の中心地で、古くから善光寺の支配権を巡って多くの争いがありました

そしてもう一つの役割は上杉謙信と上杉方の北信濃国人衆に向かって「どこからでもかかってこいや!」と言わんばかりの「挑発」です。

第一次とは異なり、信玄はかなり大胆な一手を打ってきました。

旭山城は、その山城としての特徴から防御主体の詰めの城です。

しかしここは上杉方を引きつけて二正面作戦を促す目的、つまり「おとり」の役割りもありますので、防御主体の城でいいのです。

山城を力で攻め落とすのは容易ではなく、これに謙信が取りかかっている間に信玄が正面から攻撃できますし、謙信が旭山城を無視して信玄に正面から向かってきても、旭山城がある限り、常に自陣の横っ面を突かれないよう旭山城方面に一定数の兵力を割かなければいけません。

つまり少数でも籠城しているだけで旭山城は上杉謙信にとっては脅威なのです。

では先手を打たれてしてしまった謙信は何をしたのでしょうか。

 

「旭山城、おまえはもう死んでいる」戦術

旭山城が武田方に落ちたとき、謙信はすかさず「横山城(よこやまじょう)」という城に入ります。

この横山城は、善光寺の東側、本堂のすぐ真横に築かれた平山城です。神仏への嫌がらせではありません。

善光寺は川中島を含む善光寺平の総元締めのような立ち場で、古くからこの地域の支配を目論む武将たちの権力争いに巻き込まれてきました。といっても善光寺自体が権力そのものだったのですが。

そんなアウトレイジな時代では、宗教施設と言えども安穏としてはいられません。

一向宗の尾山御坊や石山御坊のように宗教施設もこの時代は城郭並みに守りを固めていました。

特に善光寺のようにこの地域一帯に利権を持つ立ち場では、たとえ寺でも要塞化せざるをえません。

その善光寺の守りを固める外郭が横山城であり、その横山城の詰めの城として築城されたのが旭山城なのです。

さて、謙信は横山城に布陣してみたものの、そもそもその横山城の詰めの城でもある旭山城には、何の脅威にもなりません。

そこで謙信は、旭山城への対策として、戦のセオリーである「付け城戦術」で対抗します。

謙信は旭山城の北方、旭山よりさらに高くて、旭山城を一望できる場所にある「葛山城(かつらやまじょう)」を改修し、ここに陣を移動します。

次いで葛山城の後方に「大峰城おおみねじょう」も築きました。

以下の地図でご確認を。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141203-4

©2014Google,ZENRIN

紫色の拠点→謙信サイドの葛山城・大峰城・横山城

赤色の拠点→信玄サイドの旭山城

黄色の拠点→善光寺

この大峰城、昭和のお城建築ブームの時に場違いでフェイクやっちまった感満載の「近代的な」天守が建てられました。

もちろん大峰城には、戦国時代はおろか江戸時代にも天守なんてありません。

フェイクでも全力で釣られてこその城マニアが、この大峰城天守をハイパーポジティブに評価するなら、旭山城址に建てなかった判断がグッジョブ!です。←全然誉めてない。

話を戦国時代に戻しましょう。

 

善光寺の利権問題に食い込んだ信玄

「上杉謙信は付け城戦術で葛山城と大峰城を築いた」と書けば教科書の模範解答としては正解です。

では何故、有効な付け城が葛山城と大峰城なのか?

と問われれば、全く答えにはなりません。

この先を考えることで歴史がぐんと面白くなるのですが、学校教育ではそこまで踏み込みません。

おっと教育批判はそこまでだ!

というかそもそも学校でお城の意義なんて教えませんが。

城に戻ります。

葛山城は旭山城より高く、間近で圧力をかけるには最適の位置なのはわかります。

しかし大峰城については葛山城の背後にあり、存在意義が分かりません。

最初は補給の城かと考えましたがそれは葛山城で十分ですし、善光寺一帯は上杉の支配地域ですので補給ルートの確保や補給地点に難はありません。

すべての城にはそこに立つ理由があると考える私には、大峰城の位置に特に言及する資料もなくモヤモヤが残ります。

そこで私見を入れさせていただきますと……。

この付け城の配置には、旭山城に篭った栗田氏の出自が関係しているのではないか?と考えます。

栗田氏は善光寺平の国人衆の一人で、代々善光寺の別当職を務めてきた一族でもあります。

お寺の別当というのはざっくりいうと宮司兼管理者のような立場です。

要するに善光寺の既得権益者です。

既得権益あるところに権力闘争あり――。

これが戦国時代になって善光寺大御堂派と小御堂派で親族対立を起こし、小御堂別当の栗田氏が武田信玄側に付きました。まぁ、信玄が親族争いに付けこんだのでしょう。

栗田氏の歴史をもう少し遡りますと、栗田氏は善光寺の別当職に就く前から戸隠神社の別当職を代々務めていました。

この栗田氏の先祖の地である戸隠と善光寺、そして旭山城をつなぐルートを見てみますと、葛山城の南方を通るルートと葛山城と大峰城の山間を抜ける2通りのルートがあることが分かります。

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141203-5

左上、北西が戸隠。古くから修験者の修行の地であり忍者伝説も/©2014Google,ZENRIN

お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20141203-6

葛山城と大峰城で戸隠方面を遮断/©2014Google,ZENRIN

つまり大峰城は、戸隠方面から旭山城の栗田氏への援軍(戸隠流の忍者軍団がいたかどうかは分かりません)や援助物資の道を完全に遮断するために築かれた――そう考えるのが自然ではないでしょうか。

旭山城の孤立=栗田氏の孤立=戸隠方面を遮断。

と考えると葛山城と大峰城の位置は旭山城を孤立に追い込む絶妙な付け城戦術、さすが謙信さん!となります。

あくまで「お城野郎!(私のことです)」の私見ですので妄想の域を出ませんけどね。

まんざら外れでもない気はしております。

※続きは【次のページへ】をclick!

次のページへ >



-武田・上杉家
-

×