戦国大名にとって妻とは、様々な意味で重要なパートナーです。
跡継ぎをもうけることはもちろん、家中の取り仕切りや、他家の妻女とのお付き合いなど、特に正室には多くの仕事がありました。
本稿ではそういった役目もこなしていた、とある大名正室に注目。
1604年3月16日(慶長9年2月16日)に亡くなられた上杉景勝の正室・菊姫です。
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そもそも景勝にスポットが当たることが少ないので、菊姫が戦国もののドラマや映画に出てくることも少なめですよね。
大河ドラマ『天地人』では比嘉愛未さんが熱演していらっしゃいましたので、そのイメージを持っている方もおられるでしょうか。
実はこの菊姫、上杉景勝の正室ということから想像しにくいかもしれませんが、宿敵・武田信玄の娘(であり武田勝頼の妹)です。
それが一体、何がどうして結婚へ結びついたのか?
彼女の生涯を振り返ってみましょう。
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後北条氏を敵に回し 上杉と関係強化
菊姫は永禄元年(1558年)、武田信玄の五女として生まれました。
母は側室の油川夫人。
仁科盛信、葛山信貞、そして織田信忠の正室・松姫とは同腹のきょうだいです。
この時代の女性によくあることで、菊姫の幼少期のことはよくわかっていません。彼女の名が歴史に登場するのは、武田家が外交方針を大きく変えなければならなくなったからです。
きっかけは【長篠の戦い】での大敗でした。
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優秀な武将や兵を多く失った武田軍。
その後は外交で戦を避けることも視野に入れなければならず、謙信が亡くなった上杉家で後継者争い【御館の乱】が起きたとき、武田勝頼は景勝の要請に応じることに決めました。
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実はその前に武田家は、同盟相手の後北条家から「上杉景虎はウチ(後北条家)から養子に行った人だから、武田も景虎方についてね」(超訳)と言われていたにもかかわらず、です。
つまり、後北条家との約束を破って、景勝についたことになり、当然、武田家は後北条家と敵対関係になりました。
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ここで景勝との関係を強めるため、武田家から嫁いだのが菊姫です。
信玄・謙信の時代には何度も争っていながら不思議なものですが、当の信玄が「わしが死んだら上杉家を頼れ」と言い残していたからともされますね。
両家の戦で亡くなった将兵からすると「……えっ?」という感じかもしれません。
後北条氏の小田原征伐が終わると、菊姫は京都へ
菊姫は質素倹約をモットーとする賢夫人として、景勝だけでなく上杉家にすぐ受け入れられたようです。
才色兼備を謳われていることからして、容姿も優れていたのでしょう。
皆さんご存じの通り、武田家は織田信長により滅ぼされました。
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景勝はその後も菊姫を正室として扱い続けました。
子供はいませんが、信長の存命中に武田家の血を引く男子が生まれてしまうと、武田家旧臣に担ぎ上げられるおそれがあったでしょう。
御館の乱で疲弊した上杉家としては、あまり好ましくない事態です。
やがて織田政権から豊臣秀吉の世になり、上杉家もその傘下に入ります。
そして北条家を取り潰した【小田原征伐】以降、諸大名の妻は3年間、京で暮らすよう命じられ、これ以降、菊姫はずっと京で暮らすことに。
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京では他の大名や公家の女性たちと手紙や贈り物のやり取りをし、家同士の交流に努めています。
派手な逸話こそないものの、地道に大名の妻としての勤めを果たしていたということでしょう。
また、兄・武田勝頼を手厚く弔ってくれた妙心寺に深く帰依していたそうです。
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