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【菊姫】
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兼続の妻・お船の方とも仲がよく?
途中からは伏見に移り、景勝の片腕である直江兼続の正室・お船の方もよく菊姫を支えたといわれています。
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この人も女傑として有名ですね。
関が原の戦いで上杉家が大幅減封になった後も伏見にいたのですが、慶長八年(1603年)冬から病気になり、半年もせずに亡くなりました。
享年46。
当時としては若すぎるというほどでもありませんが、病の進行が早いような……。どんな病気だったんでしょうね。
菊姫が病になるより数ヶ月前。
豊臣秀頼と千姫の婚儀が行われており、景勝はその頃から翌年8月まで伏見の上杉屋敷にいたため、菊姫を間近で看取ることになったと思われます。
上杉家の記録である『上杉家御年譜』には、菊姫が亡くなったとき景勝を始め家中一同「悲歎限りなし」という様子だったと記されており、彼女の人徳が伺えます。
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景勝は正室と側室を立て続けに失ってしまう
また、菊姫の弟で上杉家に身を寄せていた武田信清が、姉の看病のため急いで上洛したことや、景勝が寺社へ祈願を立てたり、名医を招いたことも書かれています。
ちなみに、景勝は菊姫の死から数カ月後に、側室(継室扱いになっていることもある)四辻氏も産褥で亡くしています。
このとき生まれたのが二代目米沢藩主・上杉定勝。
景勝は元々感情を表に出すことが少なかったようで、はっきりした記録はありませんが、正室と側室を立て続けに失って、相当ショックを受けたでしょうね……。
菊姫の法名は「大儀院殿梅岩周香大姉」といいます。
「周」の字には「隅々まで行き渡る」、「香」には「美しい色艶」という意味があるため、「家中の隅々までよく気遣う、才色兼備の正室」といったイメージが浮かび上がってきますね。
「男色が過ぎて、菊姫との間に子供ができなかった」という俗説がある景勝ですが、この戒名や記録から見る限り、少なくとも菊姫との関係は悪くなかったはずです。
手紙の一つでも見つかれば、また印象が変わってくるのでしょう。
今後に期待したいところです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
丸島和洋『戦国大名武田氏の家臣団―信玄・勝頼を支えた家臣たち』(→amazon)
菊姫_(上杉景勝正室)/wikipedia
武田信清/wikipedia
米沢武田家/wikipedia