戦国時代最強とも謳われる武田信玄の武田軍。
上杉や北条、今川などの大国を相手に勢力を拡大し【三方ヶ原の戦い】では織田徳川連合軍を完膚なきまでに叩くのですから、もしも信玄がその後も存命なら歴史はガラリと変わっていたことでしょう。
そんな強力な武田軍にあって、最強とも言える武将は?
山県昌景(やまがたまさかげ)が筆頭候補ではないでしょうか。
・馬場信春
・春日虎綱(高坂弾正昌信)
・内藤昌秀(内藤昌豊)
らと共に【武田四天王】に数えられる猛将であり、戦場では最も目立つ「赤備え」を率いて、先陣を駆け回った。
いわば武田家の代表とも言える武将であり、実際にどんな事績があったのか?

山県昌景/wikipediaより引用
2023年の大河ドラマ『どうする家康』では橋本さとしさんが演じて長篠の戦いに散った、山県昌景の生涯を振り返ってみましょう。
譜代家老・飯富一族の生まれ
山県昌景は生年不詳です。
ただし、甲斐では名門である譜代家老・飯富一族の出身であり、飯富虎昌の弟(甥説もあり)として知られます。
若い頃から武田信玄の近習に抜擢され、兄・飯富虎昌に勝るとも劣らぬ武功を立てながら、順当に出世。
飯富源四郎の名は広く知られるようになってゆきました。

兄の飯富虎昌/wikipediaより引用
永禄4年(1561年)に勃発した、第4次にあたる【川中島の戦い】では本隊にいて、前衛中央で本陣を守り抜いたともされます。
兄の飯富虎昌は信玄の嫡子である武田義信の傅役を務めており、兄弟で存在感を発揮していたとも言えるでしょう。
しかし、そんな彼に悲運が襲い掛かります。
信玄と義信が、対立するようになったのです。
義信は今川家から正室を迎えており、今川家との同盟を継続させたい。
一方、信玄は同盟を破棄して駿河へ攻め込みたい。
そんな外交方針の違いが親子の分断を招いたとされ、程なくして飯富虎昌は、義信を担いだ謀反人として捕われ、永禄8年(1565年)10月15日に自害へ追い込まれました。
『甲陽軍鑑』では、このとき虎昌の暗殺計画を信玄に密告したのが昌景だったと伝わっています。
「おお、合点がいった。嬉しく思うぞ!」
信玄はことのほか喜んだとされるも、飯富家は断絶。
その家臣と赤備えの精鋭たちは、山県氏を継いだ昌景が率いることとなりました。
もともと山県氏は、当主の虎清が武田信虎に成敗されて以来途絶えていたのですが、これを機に復活させて継承したのです。

武田信虎/wikipediaより引用
昌景は「職」も継いだとされますが、これは確たる資料は残されておりません。
徳川に睨みを利かせる
赤備えを継承し、武田家では圧倒的な武力を誇る山県昌景。
駿河の江尻城城代となり、徳川家康に睨みを利かせました。
家康にとっては、得も言われぬプレッシャーだったでしょう。
甲斐の武田本拠地から槍で突き刺すように江尻城が出張っていて、いつでも浜松城へ攻め込めるような位置取りであり、同時に昌景は積極的に外交を行いました。
近隣の国衆から、遠くは陸奥国蘆名氏まで、様々な文書に彼の名が見えるのです。
武田信玄には、蘆名盛氏と手を組み、上杉謙信を挟み撃ちにする遠大な計画があり、その交渉を担ったのが他ならぬ昌景でした。
そして信玄最晩年に、昌景の赤備えが猛威を振るう戦いが起きます。
【三方ヶ原の戦い】です。
三方ヶ原の戦い
元亀3年(1572年)10月3日、信玄は【西上作戦】を開始しました。
武田勢は二手に分かれ、遠江国と三河国へ。
戦いに至るまでの詳細は今なお諸説ありますが、浜松城の眼前を通り過ぎようとした武田軍に対し、それを追うようにして襲いかかった徳川軍というのが通説。
両軍は三方ヶ原で激戦となりました。
幾度もの激闘を経験してきた武田軍。
とりわけその先陣を担うとされる山県昌景の赤備えは、この戦いで徹底的に徳川軍を苦しめました。
家康に襲いかかる武田軍から守るため、家臣・夏目吉信が身代わりになった――そんな話もあるほど追い込まれた家康はどうにか浜松城へ戻り、九死に一生を得ます。

徳川家康/wikipediaより引用
この一連の戦いにより、武田家は徳川家・織田家と徹底的に対立。
家康も信長も窮地に陥る……と、そこで両家にとっては僥倖の報せが届きます。
翌元亀4年(1573年)4月12日、武田信玄が亡くなったのです。
家督を継いだのは四男の武田勝頼であり、死に際して信玄は、昌景に「勝頼の補佐を頼む」と言い残しました。
信玄が最も信頼していた家臣が、春日虎綱(高坂昌信)と山県昌景だったのですが、残念ながら勝頼とは反りが合わなかったとされます。
しかしそれは、勝頼一人の問題とも言えないでしょう。
嫡男・武田義信の死により、後継者候補は混乱の様相を呈し、信玄の認識ですら勝頼は後継者ではなく、あくまで中継ぎだったのです。
そんな信玄以来の武断派功臣と、勝頼の側近たちでは、どうしたって歪が生じてしまう。
昌景はそれでも武勇を奮い、敵対した織田勢の前に立ち塞がり続けました。
長篠に散る
天正3年(1575年)5月、運命の一日がやってきます。
【長篠の戦い】が勃発。
約1万5千の武田軍に対し、織田徳川は約3万8千とされるの連合軍であり、しかも、敵の視界から見えづらい山中に隠れるようにして陣を張るなど、万全の迎撃態勢です。
そんな圧倒的不利な状況にもかかわらず、なぜ武田軍は無謀な突撃を強行したのか?
山県昌景が勝頼を諌めたという話もありますが、家康の家臣・酒井忠次率いる別働隊が背後に迫ったことで武田軍は前に出るしか無くなった――という見立てもあり、ともかく後がないとばかりに攻め込みます。
九ツ始め(午前11時)、一番隊三百騎を率いたのが山県昌景でした。
赤備えの山県勢が、猛然と徳川勢に襲い掛かります。
しかし、徳川には鉄砲や陣など入念な準備もあり、山県隊はあえなく潰され、次に二番隊の武田信廉が突撃。
以降も、小幡隊、武田信豊、馬場隊など、次々に武田軍は打ち破れて、未刻(午後2時頃)には全軍撤退を余儀なくされるほど追い詰められます。
さしもの昌景も、鉄砲の猛射撃には耐えきれず、結局、この戦いで敗走中に討死と相成りました。
生年不明のため享年も不明。

中央やや右・首を斬られ、家臣に運ばれているのが山県昌景『長篠合戦図屏風』より/wikipediaより引用
山県氏のその後
上記の『長篠合戦図屏風』では家臣が山県昌景の首を持ち帰ろうとしているように見えますが、勝利を収めた織田・徳川は、討ち取った首の筆頭に昌景を置いたと伝えられています。
後世に、武田四天王あるいは武田二十四将でも称えられる山県昌景は、それほどおそろしい敵として認識されていたのでしょう。
第四次川中島の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦い――など、武田軍の著名な合戦には必ずその名がありました。
ゆえに現代の映像作品でも出番が多く、長身の役者が演じることがあります。
2022年大河ドラマ『どうする家康』で演じる橋本さとしさんは184センチと、武田信玄の阿部寛さんに勝る体格です。
しかし、伝えられるところによると、山県昌景当人は小柄で風采は冴えなかったとされます。
戦場での際立った強さゆえ、大きな像として描かれる。
それが武田家の誇る猛将・山県昌景でした。
★
昌景の討死後、山県家は子の昌満が家督を継承し、武田家が滅亡すると、織田信長に捕らえられ処刑されました。
福井藩には笹治大膳という家があり、十代目に山県に姓を改め、山県昌景の子孫と称しています。
その他の子孫は、上杉家や徳川家に仕官した者がいるとされます。
【大坂の陣】にも子孫を名乗る者はいたとされます。
女系をたどると山県昌景の娘の一人は初婚の夫を亡くした後、酒井忠次に嫁ぎ、三男・久恒を産み、駿府で一生を終えたとされます。
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【参考文献】
『武田氏家臣団人名事典』(→amazon)
高野賢彦『甲州・武田一族衰亡史』(→amazon)
他





