戦国時代最強とも謳われる武田信玄の武田軍。
上杉や北条、今川などの大国を相手に勢力を拡大し、ついには【三方ヶ原の戦い】で織田徳川連合軍を完膚なきまでに叩くのですから、もしも信玄がその後も存命なら、家康や信長の命運も確かなことではなかったでしょう。
そんな武田軍にあって、最強とも言える武将は?
山県昌景(やまがたまさかげ)が筆頭候補ではないでしょうか。
・馬場信春
・春日虎綱(高坂弾正昌信)
・内藤昌秀(内藤昌豊)
らと共に武田四天王に数えられる猛将であり、戦場では最も目立つ「赤備え」を率いて、先陣を駆け回った。
いわば武田家の代表とも言える武将であり、実際にどんな事績があったのか?
2023年の大河ドラマ『どうする家康』では橋本さとしさんが演じて長篠の戦いに散った、山県昌景の生涯を振り返ってみましょう。
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譜代家老・飯富一族の生まれ
山県昌景は生年不詳。
ただし、甲斐では名門である譜代家老・飯富一族の出身であり、飯富虎昌の弟(甥説もあり)として知られます。
若い頃から武田信玄の近習に抜擢され、兄・飯富虎昌に勝るとも劣らぬ武功を立てながら、順当に出世。
飯富源四郎の名は広く知られるようになってゆきました。
永禄4年(1561年)に勃発した、第4次にあたる【川中島の戦い】では本隊にいて、前衛中央で本陣を守り抜いたともされます。
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兄の飯富虎昌は信玄の嫡子である武田義信の傅役を務めており、兄弟で存在感を発揮していたとも言えるでしょう。
しかし、そんな彼に悲運が襲い掛かります。
信玄と義信が、対立するようになったのです。
義信は今川家から正室を迎えており、今川家との同盟を継続させたい。一方、信玄は同盟を破棄して駿河へ攻め込みたい。
そんな外交方針の違いが親子の分断を招いたとされ、程なくして飯富虎昌が義信を担いだ謀反人として捕われると、永禄8年(1565年)10月15日、自害へ追い込まれました。
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『甲陽軍鑑』では、このとき虎昌の暗殺計画を信玄に密告したのが昌景だったと伝わっています。
「おお、合点がいった。嬉しく思うぞ!」
信玄はことのほか喜んだとされるも、飯富家は断絶。
その家臣と赤備えの精鋭たちは、山県氏を継いだ昌景が率いることとなりました。
もともと山県氏は、当主の虎清が武田信虎に成敗されて以来途絶えていたのですが、これを機に復活させて継承したのです。
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昌景は「職」も継いだとされますが、これは確たる資料は残されておりません。
徳川に睨みを利かせる
赤備えを継承し、武田家では圧倒的な武力を誇る山県昌景。
駿河の江尻城城代となり、徳川家康に睨みを利かせました。
家康にとっては、得も言われぬプレッシャーだったでしょう。
甲斐の武田本拠地から槍で突き刺すように江尻城が出張っていて、いつでも浜松城へ攻め込めるような位置取りであり、同時に昌景は積極的に外交を行いました。
近隣の国衆から、遠くは陸奥国蘆名氏まで、様々な文書に彼の名が見えるのです。
武田信玄には、蘆名盛氏と手を組み、上杉謙信を挟み撃ちにする遠大な計画があり、その交渉を担ったのが他ならぬ昌景でした。
そして信玄最晩年に、昌景の赤備えが猛威を振るう戦いが起きます。
【三方ヶ原の戦い】です。
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