直江兼続と徳川家康(右)の肖像画

直江兼続と徳川家康(右)/wikipediaより引用

武田・上杉家

直江状|家康を激怒させた書状には何が書かれていた?関ヶ原を誘発した手紙

2025/04/14

慶長五年(1600年)4月14日は、上杉家の家老・直江兼続が、いわゆる『直江状』を出したと言われている日です。

徳川家康が『こんな無礼な手紙は見たことがない!』と切れ、会津征伐を決めた手紙だということや、兼続の肝の据わりようがわかるということで有名ですが、実は原本は現存していません。

家康がその場で破り捨てた可能性もなくはありません。

写本とされるものはいくつかあり、現在知られているのは写本あるいは偽物の内容だといわれています。

そんなわけで「有名な割に存在していたかどうかがアヤシイ」手紙なわけにもかかわらず、関ヶ原関連の話をする上では欠かせないものになっています。

では、少し時間を遡って豊臣秀吉が亡くなる直前から

豊臣秀吉/wikipediaより引用

振り返ってみましょう。

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領内の政治を進め 政宗を見張り 京都へ上洛

兼続の主・上杉景勝は、五大老の一人として秀吉政権の重きを成していました。

しかし、上杉家の領地は一貫して雪国。

さらに五大老の中で一番領地が遠かったのもまた事実で、何回も上洛を言いつけられると領内の政治がはかどりません。

上杉景勝/wikipediaより引用

しかもその合間に、秀吉存命中からアヤシイ動きを繰り返していた伊達政宗ら東北諸大名&関東の家康を見張らなくてはいけませんでした。

かなり負担の重い仕事ですが、景勝が寡黙な人だったからなのか、あるいは雪国生まれゆえの我慢強さからなのか、少なくとも表向きキレることはありませんでした。

その代わり?に、こうした状況に(#^ω^)していたのが直江兼続です。

 


秀吉が亡くなり崩れるバランス

直江状(の写し)でも上記の点、特に「当地は年の半分は雪に覆われて何もできないというのに、しょっちゅう上洛しろと言われて困っている」(意訳)ということはかなり強調されています。

ただ、少なくとも秀吉存命中はそうした不満を表に出すことはありませんでした。

直江兼続/wikipediaより引用

兼続にしても【小田原征伐】での物量作戦を見ていますし、秀吉に逆らったところで他の大名に寄ってたかって潰されるのがオチですからね。

もしも反抗的なスタンスを表面化させれば、ご近所の政宗や家康が「俺は太閤様の忠実な家臣でーす!」というポーズのため喜んで攻めてきたでしょう。

特に政宗にとって、上杉家が移封された会津はかつて数々の苦難の上に一度手に入れた土地でしたから、待ってましたと言わんばかりに取り返しに来ることは明らかでした。

そんなわけで、東北周辺の安定は秀吉の命によって保たれているも同然。

亡くなれば平穏は崩れます。そして……。

慶長3年(1598年)8月、ついに秀吉が逝去しました。

その瞬間を待っていたかのように政権内部が家康の専横状態になると、不満を抱く大名も出てきます。

上杉家では「ケンカを売るなら今だ!」と考えたのでしょう。「石田三成の挙兵は兼続と呼応していた」なんて説も囁かれたりしますね。

そんなこんなで秀吉の葬儀が終わった後、景勝は会津に戻って領内の整備に取り掛かります。

 

上杉の行動を家康にチクッたのは堀秀治だった

上杉景勝はまず、会津若松城が将来的に手狭になると考え、領地のほぼど真ん中で築城を開始。

冬の会津若松城(鶴ヶ城)

道を整備したり橋をかけたりして、領内の交通を便利にしています。

他にも武器を集めていたりするのでこれは弁明のしようもありませんが、領内の整備についてはむしろ領主として当然のことです。

しかも戦に備えるなら国境に城を作るべきなのに、ど真ん中に作ったところでさして意味はありません。

当初から防衛戦を念頭に置いていて、最後の最後までど真ん中の城で全員討死覚悟で戦うというなら話は別ですが。

要は、見方次第で内政のためとも軍備とも取れるようなことだったんですね。

こういった上杉家の動きを家康に報告したのは、上杉家の旧領・越後に入った堀秀治という大名でした。

信長や秀吉に重用された堀秀政の跡取りであり、上杉家とは過去に揉め事があって日頃からよく思っていない人物です。

トラブルの原因は、本当は残しておくべき年貢を上杉家がごっそり持って行ってしまったからで、そりゃ恨みに思いますわな。

ちなみにこれより数年後、細川忠興と黒田長政の間でも似たようなトラブルが起きています。

忠興は武力でもって年貢を取り返そうとするわ、「黒田家のヤツには礼儀尽くす必要ねーから!」という実に大人気ない指示を家中に出すわ、大変なこじれっぷりになりました。

堀家と上杉家の間も、感情的には似たようなものだったと思われます。

 

直江状「多少の無礼は許してね☆」

というわけで「堀家からの報告+日頃の行い」のことを突っ込む手紙が徳川家康……ではなく、西笑承兌(さいしょうじょうたい)という僧侶から上杉家へ送られました。

この時代によくあることで、聖職者なら中立的な立場だろうということで外交官役の僧侶が一筆したためたんですね。

西笑承兌/wikipediaより引用

実際の手紙はお坊さんらしくとても丁寧なのですが、平たく言うと「堀家からの報告があって家康が怪しんでるから、上洛して弁明したほうがいいよ! 誤れば許してくれるってよ!」という感じです。

これに対する返事が「直江状」と呼ばれているものです。

箇条書きの上に、承兌じょうたいからの手紙の三倍ぐらい長さがあるという、その時点で慇懃無礼さプンプンの返書でした。

直江状を現代風にまとめるとこんな感じです。

【直江状】

今まで何回も上洛させられて内政が滞ってたから、今真面目にやってるところなんですけど?

仕事してるのに疑われるってすげえムカつくんですけど?

道や橋の整備は領民のためだし、これが戦支度だって言うんなら敵の手助けをするようなもんじゃないですか。そんなバカなことしないしwwwwww

弁明しろ誓書を出せって言うけど、今まで他の家との誓書を簡単にほっぽらかしてきたくせによく言いますねw

うちの殿は謀反する気なんて全然ないのに、そんなことを疑うほうが怪しいんじゃないですか?

この手紙は家康サマに見せるってことだから、ありのままに書いたけど多少の無礼は許してね☆

実際はもちろんもっと丁寧に書いていますが、兼続の他のエピソードからすると気分的にはこんな感じで間違っていないかと。

というのも「兼続がイヤミを言っていた」という話がいくつかあるのです。

※村上新悟さんが『真田丸』で演じられた直江兼続は本作の名シーンとしてもお馴染みですね

ではイヤミとは一体どんなことだったのか?

 


政宗との逸話からも直江状の真意がうかがえる?

上記の通り上杉家と伊達家が水面下でピリピリしていたことを反映してか、政宗との逸話で二つもイヤミを言っています。

一つは、大坂城で大名とその側近が一堂に会したときのこと。

政宗の領地をはじめ、東北一帯は金が出ることで有名でしたから、「いっちょ自慢の小判を見せてもらえませんか」という話になりました。

伊達政宗/wikipediaより引用

自信満々で小判を取り出す政宗。

居並ぶ大名へ順番に見るよう勧めると、大名達は手に取っては「これはすごい」「さすがですな」とお世辞か本気かわからんコメントをしていきました。

そして兼続の番になります。

と、彼はなぜか直には手に取らず、扇子を広げた上でぴょこぴょこひっくり返すという奇妙なことをし始めました。

これを見た政宗が「大名じゃないからって遠慮しなくていいぞ。直に手に取って見ればいい」と気遣い半分&自慢半分で言ったときの兼続の反応がスゴイ。

「私は武士なので、このようなキタナイモノを直に手に取るわけには参りません^^」

そう言ってのけたのです。

本当にそう思ってた可能性もありますが、このタイミングでそんなことを言おうものなら、政宗や他の大名に対するイヤミとしか取れませんよね。

兼続に関する本の中では「清廉潔白なことを示すエピソード」として紹介されていることの多い話ですが、その場の雰囲気を想像すると裸足で逃げ出したくなるほど失礼な物言いでしょう。

 

「戦場から逃げる後姿ばかり見てた」

もう一つも実は政宗関連です。

これは江戸時代のもので、あるとき江戸城の廊下で兼続と政宗がすれ違うということがありました。

現代の会社でも、知り合いや上司とすれ違うときには目礼するなり「お疲れ様です」と一声かけるのが礼儀ですよね。

しかし、兼続は大名でもない一家臣だというのに、政宗を無視して通り過ぎたのです。

当然、政宗は「無礼ではないか」と咎めましたが、これに対する反応が「あぁすみません、戦場から逃げる後姿しか見たことがなかったのでwww」というものでした。

このとき政宗の右腕・片倉景綱がいたかどうか微妙なのですが、同伴していたら凄まじい口論になってたかもしれませんね。冷静な人なので刃傷沙汰にはならなかったでしょうけども。

片倉景綱/wikipediaより引用

というか、この二つの逸話が事実であれば顔を知らないわけはないはずですから、両方とも相当なイヤミですよね。

そしてどっちの話でも影の薄い景勝ェ……。

まあそれはともかく、そんな感じで爽快な機転やユーモアというよりただのイヤミに近い言動が多かったらしいので、直江状があったにせよなかったにせよ、その内容と似たような態度を兼続が取り続けたのはおそらく事実でしょう。

家康は家康で最初から上杉家をよく思っていない上、タダで手駒にできるとも思っていなかったからこそ武力を使ったんでしょうし、腹の黒さではどっこいどっこいですかね。

大名や軍人、政治家といった国を担う仕事の人は、真っ白ではいられないとは思いますけれども。

なお、直江兼続の生涯そのものを記したのが以下の記事です。よろしければ併せてご覧ください。

📚 戦国時代|武将・合戦・FAQをまとめた総合ガイド


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【参考】
国史大辞典
笠谷和比古『関ヶ原合戦と大坂の陣』(→amazon
直江状/wikipedia
直江兼続/wikipedia
上杉景勝/wikipedia

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長月七紀

2013年から歴史ライターとして活動中。 好きな時代は平安~江戸。 「とりあえずざっくりから始めよう」がモットーのゆるライターです。 武将ジャパンでは『その日、歴史が動いた』『日本史オモシロ参考書』『信長公記』などを担当。 最近は「地味な歴史人ほど現代人の参考になるのでは?」と思いながらネタを発掘しています。

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