直江状

直江兼続と徳川家康(右)/wikipediaより引用

武田・上杉家

家康激怒の『直江状』には何が書かれていた?関ヶ原の戦いを引き起こした手紙

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上杉の行動を家康にチクッたのは堀秀治だった

上杉景勝はまず、会津若松城が将来的に手狭になると考え、領地のほぼど真ん中で築城を開始。

道を整備したり橋をかけたりして、領内の交通を便利にしています。

他にも武器を集めていたりするのでこれは弁明のしようもありませんが、領内の整備についてはむしろ領主として当然のことです。

しかも戦に備えるなら国境に城を作るべきなのに、ど真ん中に作ったところでさして意味はありません。

当初から防衛戦を念頭に置いていて、最後の最後までど真ん中の城で全員討死覚悟で戦うというなら話は別ですが。

要は、見方次第で内政のためとも軍備とも取れるようなことだったんですね。

こういった上杉家の動きを家康に報告したのは、上杉家の旧領・越後に入った堀秀治という大名でした。

過去に揉め事があり、上杉家のことを日頃からよく思っていない人物です。

トラブルの原因は、本当は残しておくべき年貢を上杉家がごっそり持って行ってしまったからで、そりゃ恨みに思いますわな。

ちなみにこれより数年後、西のネタ大名・細川忠興と、黒田長政の間でも似たようなトラブルが起きています。

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黒田長政
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忠興は武力でもって年貢を取り返そうとするわ、「黒田家のヤツには礼儀尽くす必要ねーから!」という実に大人気ない指示を家中に出すわ、大変なこじれっぷりになりました。

堀家と上杉家の間も、感情的には似たようなものだったと思われます。

 

直江状「多少の無礼は許してね☆」

というわけで「堀家からの報告+日頃の行い」のことを突っ込む手紙が徳川家康……ではなく、西笑承兌(さいしょうじょうたい)という僧侶から上杉家に届きました。

この時代によくあることで、聖職者なら中立的な立場だろうということで外交官役の僧侶が一筆したためたんですね。

実際の手紙はお坊さんらしくとても丁寧なのですが、平たく言うと「堀家からの報告があって家康が怪しんでるから、上洛して弁明したほうがいいよ! 誤れば許してくれるってよ!」という感じです。

これに対する返事が「直江状」と呼ばれているものです。

箇条書きの上に、承兌じょうたいからの手紙の三倍ぐらい長さがあるという、その時点で慇懃無礼さプンプンの返書でした。

直江状を現代風にまとめるとこんな感じです。

【直江状】

今まで何回も上洛させられて内政が滞ってたから、今真面目にやってるところなんですけど?

仕事してるのに疑われるってすげえムカつくんですけど?

道や橋の整備は領民のためだし、これが戦支度だって言うんなら敵の手助けをするようなもんじゃないですか。そんなバカなことしないしwwwwww

弁明しろ誓書を出せって言うけど、今まで他の家との誓書を簡単にほっぽらかしてきたくせによく言いますねw

うちの殿は謀反する気なんて全然ないのに、そんなことを疑うほうが怪しいんじゃないですか?

この手紙は家康サマに見せるってことだから、ありのままに書いたけど多少の無礼は許してね☆

実際はもちろんもっと丁寧に書いていますが、兼続の他のエピソードからすると気分的にはこんな感じで間違っていないかと。

というのも「兼続がイヤミを言っていた」という話がいくつかあるのです。

※村上新悟さんが『真田丸』で演じられた直江兼続。本作の名シーンとしてもお馴染みですね。

ではイヤミとは一体どんなことだったのか?

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