天正6年(1578年)5月7日は春日虎綱の命日です。
高坂昌信の名でも知られる武田家の武将であり、彼には不思議な現象があります。
ネットで画像検索をかけると、イケメンイラストが大量にヒットするのです。
武田信玄を支えた名将という評価だけでなく、なぜ彼にはそんなイメージがあるのか。
いったい春日虎綱にはどんな功績があったのか?
その生涯を振り返ってみましょう。
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その名は何か?
なぜ春日虎綱は、同時に高坂昌信という名前でも知られているのか。
歴史的に見て日本史の著名人は復数の姓名を持っているほうが普通であり、変化しないようになったのは近代以降のこと。
例えば、同じく武田家臣である真田家を見ても、以下の例が挙げられます。
大河ドラマ『真田丸』により、真田家のこうした状況はよく知られるようになったかもしれません。
一方、春日虎綱の場合はややこしい要素が重なっています。
一つずつ具体的に見てまいりましょう。
◆高坂か? 香坂か?
高坂なのか、香坂なのか。複数の表記があります。
知名度は高坂のほうが高いけれど、他ならぬ本人は「高坂」を使ったことがありません。
◆香坂に養子とされた時期が最長でも11年間なのに、なぜ有名なのか?
養子の時期が本人の活躍時期とも重なるから。
◆虎綱か、昌信か?
昌信は出家後の名乗りでした。
武田信玄、上杉謙信、斎藤道三のように、出家後の法名が有名となったため、現在も使用される例はよくあります。
◆弾正とは?
仮名として名乗っていた。
虎綱は他に「高坂弾正」という呼び方も有名ですが、様々な状況が重なり、復数の名前が混乱しながら伝えられてきたことがご理解いただけるでしょうか。
本稿では「春日虎綱」として進めますのでご了承ください。
武田晴信が目を留めた美童の源五郎
本題の春日虎綱に進む前に、もう一つ、2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で注目したい人物がいます。
平盛綱です。
史実において出自が不明な平盛綱は、ドラマでは主人公・北条義時の亡妻・八重が救った孤児とされていました。
我が子の北条泰時に甲斐甲斐しく仕える彼を、義時が引き立てて御家人にしたのです。
これは出自がわからないからこそ、できる設定。
なぜ、この平盛綱に注目したのか?と申しますと、春日虎綱も出自は不明瞭です。
虎綱は大永7年(1527年)、石和の百姓である春日大隈の子として生まれ、源五郎と名乗りました。
そして天文11年(1542年)に父が死去すると、源五郎は田畑のことで姉夫妻と訴訟となってしまいます。
訴え出た16歳の源五郎に、青年大名である武田晴信、のちの信玄は目を留めます。
「わが近習としてただちに仕えるがよい」
さすが名将・武田信玄!一目でその才を見抜いた――と言いたいところですが、実際はそうではないでしょう。
虎綱が見目麗しい美少年だったからとしか思えない。そんな証拠が残されています。
天文15年(1546年)に書かれたと推定される釈明の文であり、その中身に注目。
以下のように意訳しました。
一、確かに弥七郎を何度も口説こうとしたけど、腹が痛いって言っていつも相手にされてないんだってば。信じてよ!
一、弥七郎と共寝はないんだよ。これまでだってない! 絶対に弥七郎といやらしいことはしてないし、今日の夜もそうだよ。
一、なんかさ、そういうこと色々と噂されるとかえって話が広まって迷惑なんだよね。これがもし嘘なら、当国一、二、三大明神、富士、白山、殊には八幡大菩薩、諏訪上下大明神から天罰くだされるから!
当時、弥七郎という美少年にもアプローチをしていた晴信。
それを嫉妬され、虎綱相手に書いた釈明の文が今も残されているのです。
戦国ファンにとっては有名なラブレターですね。
日本の中世において男色は特段珍しいことでもありません。
神社仏閣に残された祈願を読むと、恋のお悩みは男性同士のものが一番多いとかで、当時は両性愛者が標準と見た方がよいかとも思えてきます。
ただ、これにも注釈が必要です。
両性愛が当然の環境となると、夜中に寝室で話し合っていただけでも関係があったとみなされかねず、かつそれが親愛の証として誇張されることもあります。
徳川家康と井伊直政はこうした例といえそうで、2017年の大河ドラマ『おんな城主 直虎』でも、そうした事情を反映した作劇になっていました。
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ハッキリと恋文が残されているとなると、確定的です。
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むろん、両性愛が一般的であったからには、特異なこととするのもよろしくないと思います。
『信長の野望・天翔記』では、信玄と高坂昌信に相撲を取らせると、主従の親愛を反映させたセリフが表示されると話題になりましたが、春日虎綱が歴史に名を刻んだのは、武勇を残したことの方が大きいのです。
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