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【第一次川中島の戦い】
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信玄はナゼ攻めの城ではなく詰めの城に入ったか
ここで少し話を戻し、最初の重要な城「塩田城」についてもう一度見ておきましょう。
塩田城は、現住所でいうと長野県上田市で、市内最北端に位置します。
千曲川に沿って行くと川中島のある善光寺平に出ますが、上田市は、川中島から結構な距離があります。
中世の城であり、かつ最前線の城のご多分に漏れず山城でした。
村上義清が最後にこもった城の一つだけあって、要するに「詰め」の山城なのです。
一方、武田信玄の戦略は【積極侵攻策】です。
これは北信濃でも変わりません。
橋頭堡を築いて常に攻めの姿勢を変えず、奪取した敵の防御主体の城はほとんど破却したり改築しています。
しかし信玄は、この村上義清の詰めの城=防御主体の塩田城に入りました。
決して攻めの城ではない既存の山城に布陣するということは、上杉謙信をかなり警戒していたのか。
ここまでの積極侵攻策には反する、つまり遠くに位置する山城に布陣したという一点から、これはもう完全に【信玄はこれ以上侵攻する気が全く見えない】状態です。
第一次川中島の戦いは、武田の先鋒隊が川中島の入り口付近「布施」で上杉勢に蹴散らされて終了した、と記されています。
しかし城マニアの視点から見れば、
「塩田城に布陣した」
という記述だけでも、様子見程度だったと想像がつきます。
城の特徴を見れば進軍の意図も自ずと明らかに
このように城の特徴、例えば「山城なのか、平城なのか」ということだけでも、戦いの意図や目的が見えてきます。
ちなみにこの第一次川中島の戦いは、信玄の本陣があまりにも川中島から遠いことや、そもそもの目的がその後の【川中島の戦い】の目的(川中島を含む善光寺平の支配)とは全く違い、これを第一次にカウントしていいのか?と疑問を呈する専門家も大昔から存在します。
城の視点から考えても、
塩田城布陣
↓
遠くの山城から善光寺平に侵攻?
って、そりゃねえわ、無いっすわ!となります。
他ならぬ謙信だって、信玄が塩田城にいると分かった時点で「あっ、これ以上は無いね」と思ったのでしょう。
その証拠に、さっさと退陣しています。
これに対して信玄が「ほぅ、やはりアイツは戦が分かってんな」と思ったかどうかは分かりませんが、お互いに深追いはしていません。
戦の天才同士だからこそ遠く離れていても通じ合う――。
なんだかロマンのある話ですが、少なくとも信玄の方は「めんどくせーヤツを相手にしちまった……」という印象だった気がします。
後に、桶狭間の戦いで、今川義元が織田信長に討たれ、信玄が矛先を北の上杉から南の今川へ変えたのもむべなるかなという話ですね。
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マトメると
【第一次川中島の戦い】は、武田vs上杉の小競り合いはあったけど、主力が激戦とはならず、信玄が川中島の戦い入口までジリジリと進めた――
ということになりましょうか。
書物によっては「小競り合い」の一言で済まされそうですが、実際は、当人たちの息詰まる将棋が行われていたような感じですね。
次の「第二次川中島の戦い」ではどこまで進むのか?
あらためてお届けしたいと思います。
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筆者:R.Fujise(お城野郎)
◆同著者その他の記事は→【お城野郎!】
日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。