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【三河一向一揆】
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一枚岩ではない一揆勢 いつか綻び見せるはず
急激に人数が増えた一揆側も一枚岩ではありませんでした。
なにせ
・お寺
・浪人
・武士
・農民
など、当時のありとあらゆる立場の人間が一つの集団にいたのです。
たとえ信仰でまとまっていたとしても、合戦の取り組み方や、利害の対立などで、綻びが出てくるのは時間の問題でした。
実際、一揆側についた家康の家臣たちも、説得の使者が来るたびに『オレ、どっちにつくのがいいんだろう……』と悩んでおりました。
こうして懐柔案を持ちかける一方で、一揆側の本拠地には容赦なく攻撃を加えます。
本拠地・岡崎城の近くでは自ら軍を率いて討伐に向かいました。
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こうなると、団結が綻んできた一揆側はたまったものではありません。
家康の家臣たちは戦場においても
「あわわわわ! そこに殿がいらっしゃる!あばばばばばば、どうしよう畏れ多い!!」
と戦意をなくしていったとか。
巧妙すぎる講和三か条とは?
そして翌年1月。
【馬頭原の合戦】で家康は大勝利を収めます。
これを機に和平交渉をし、何とか一向一揆を抑えることができたのでした。
家臣に裏切られながらも、半年で解決した家康はやはり戦上手なんでしょう。
もちろん相手側に家臣がいたのも影響したでしょうが、なんと言っても家康がすごいのは、圧勝しながらも以下のような条件で講和したことかと思います。
1:一揆の参加者無罪
2:一揆の首謀者も、まぁ許す
3:お寺も今まで通りの運営でOK
逆に、負けた一揆側がひっくり返るくらいの好条件。
そう思わせておいたところで、
【ただし、一向宗から他の仏教に改宗してね】
というオプションもあり、さすが抜け目のない政治力を誇るだけはあります。
もしかしたら一揆勢にいた本多正信辺りの知恵かもしれませんけど。
いずれにせよ一向宗の宗教指導者は三河から立ち退き、以降、鉄の結束を誇る三河武士たちは思い思いに活躍の場を広げております。
それが後の徳川幕府へと繋がっていくのです。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
戦国人名辞典編集委員会『戦国人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)