元亀3年(1573年)12月22日は夏目広次(夏目吉信)の命日です。
大河ドラマ『どうする家康』では甲本雅裕さんが演じられ、劇中、主君の家康から何度も名前を間違えられる役どころ。
それが三方ヶ原の戦いでは、一気に存在感を発揮します。
窮地に陥った家康の身代わりとなって戦死したのです。
あれは本当の話だったのか?それともドラマの創作なのか?
夏目広次の生涯を振り返ってみましょう。
お好きな項目に飛べる目次
徳川に仕える譜代衆の夏目
徳川に仕える譜代衆の夏目家。
元々は信濃国夏目村の地頭が三河に来て松平氏に支えたとされ、現在この土地には「夏目漱石のルーツとしての案内」が建てられています。
そう、かの文豪・夏目漱石は、夏目広次の子孫だとされるのです。
思わず意識をそっちに持っていかれそうになりますが、広次の話を進めますと、彼は永正15年(1518年)、夏目吉久の子として生まれました。
松平元康より25歳も年上であり、親子ほどの年齢差。
広次が壮年期を迎えた永禄年間(1558年-1570年)ともなると、主君である元康もいよいよ力をつけていきました。
元康は以降、何度か改名しますが、本稿ではこれより徳川家康で統一します(以下は徳川家康の生涯をまとめた記事となります)。
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年
続きを見る
広次は永禄4年(1561年)、三河長沢城攻めに参戦。
永禄5年(1562年)には【三州八幡合戦】で今川氏の猛攻を受け、幾度も危機に陥りながら、殿(しんがり)をつとめた広次が6度も窮地を救ったとされます。
いかにも三河武士といった無骨な働き。
さぞかし家康も絶大な信頼を置いていたことでしょう……と思いきや、主従の関係に大きな亀裂が入ります。
永禄6年(1563年)、三河で一向一揆が勃発するのです。
いわゆる【三河一向一揆】という名称で知られるこの事件。
一向一揆なんて言うと、いかにも「宗教に絡んだ武力行為」として【島原の乱】のキリシタンや、現代カルト教団の暴力行為などを想像してしまうかもしれません。
最後の戦国「島原の乱」を制した知恵伊豆がエグい~板倉重昌は自爆
続きを見る
しかし、戦国時代にそんな言葉は無く、ただ単に「一揆」とだけ呼ばれていました。
当時、宗教勢力が武装蜂起して独自の権力を持つことは当たり前であり、江戸時代以降、そう呼ばれるようになったのです。
一度は主君を裏切った家臣も
神君こと徳川家康は生涯に三度、大きな危機があったとされます。
その一つである【三河一向一揆(三河一揆)】は、とりわけ重大な事件でした。
徳川家臣団を危機に追い込んだ三河一向一揆~家康はどう対処した?
続きを見る
当時の家康は、今川家から独立して間もない頃であり、三河の若き国衆が周囲から軽んじられるのは自然なこと。
周辺の敵対勢力との戦いに追われながら、家康はこのピンチをチャンスに変えたとも言えます。
そのキッカケが夏目広次でした。
家康は、深溝松平家の松平伊忠に命じて、一揆方の立て籠もる深溝城近郷の野羽城(六栗城とも)を攻めさせました。
そこは夏目広次のほか、大津半右衛門や乙部八兵衛らが固める一揆の拠点の一つ。
まず乙部八兵衛の内通させると、広次の捕縛に成功したのです。
家康は広次を助命し、帰参を許しました。
忠義と武勇を持ち合わせた広次を斬ることはできない――それは家康の優しさなり……というと、いかにもドラマ仕立てな美談になります。
しかし乱世において、事はそう単純でもないでしょう。
裏切った者をすぐに処分してしまえば、敵対している一揆勢たちが死にものぐるいとなって戦い、自軍の将兵も大きな損害を受けてしまう。
逆に広次を許せば、敵も急に命が惜しくなり、投降に応じる者も増える。
家康の慈悲で命を助けられたと感じた者たちは、その後、強烈な忠誠心を抱くメリットもある。
かくして助命された夏目広次は、三河武士の伝説にふさわしい人物になってゆくのですが、その伝説の最終章は、他ならぬ彼の死によって彩られます。
相手は武田信玄率いる武田軍。
三河一向一揆と並び、もう一つの家康の危機とされる【三方ヶ原の戦い】です。
※続きは【次のページへ】をclick!