こちらは3ページ目になります。
1ページ目から読む場合は
【水野信元】
をクリックお願いします。
お好きな項目に飛べる目次
お好きな項目に飛べる目次
三方ヶ原でほとんど無傷だった
元亀3年(1572年)、西上作戦を展開する武田信玄が三河へ侵攻してきました。
そこで起きたのが、有名な【三方ヶ原の戦い】です。
若き日の徳川家康が、老練な武田信玄を相手に大敗を喫した一戦ですね。
家康はなぜ信玄に戦いを挑んだ? 三方ヶ原の戦い 謎多き戦場を歩く
続きを見る
この戦いに佐久間信盛、平手汎秀(ひらてひろひで)らと共に援軍として派遣された水野信元は、ほとんど戦った形跡もなく敗戦してしまいます。
非常に数の少ない援軍だったので「偵察部隊だった」という見方もあるのですが、ともかく「信元が武田氏と戦わなかった」という事実が後に影響してきます。
加えて、天正年間(1573~1592年)に入ると織田家における地位の低下が確認され、その一方で「信長の家臣でありながら、家康にも従う」という微妙な立場だった様子も伝わってきます。
なんだかキナ臭い話になってきましたよね。
このころは徳川家康も以前と比して勢力を充実させ、信長傘下でべったりではなく、独立した大名として成長してきた頃。
水野氏は、織田徳川の間で強大な力を有し、極めて特殊な立場になっていたのです。
そして、この後、最悪の事態に直面します。
信長から家康へ「信元を斬れ」
天正2年(1574年)、水野信元は、信長に従って伊勢の長島一向一揆攻めに参加。
信長が「長島一向一揆」で敵対した宗徒2万人を虐殺~なぜ徹底的に潰したのか
続きを見る
翌年には長篠の戦いにも出陣していたと思われ、戦勝を機に武田領への攻勢を開始しました。
長篠の戦いで信長の戦術眼が鬼当たり!勝因は鉄砲ではなく天然の要害だった?
続きを見る
信長は武田方に占領されていた美濃国岩村城の奪還を目指し、嫡男・織田信忠を中心にした大軍で見事に城を落とします。
信長配下の信元にとって、本来これは悪いニュースではありません。
しかし、事件はその約一か月後に発生してしまいました。
信長は家康に「信元を殺害するように」と命じたのです。
家康にとっては、頼れる伯父。しかし、松平家と手を切り、生母を呼び戻した相手でもあります。
松平信康の切腹事件を彷彿とさせる背景ですが、家康は信長の命令通り、信元とその養子・元茂を岡崎城へ呼び出すと、切腹を告げました。
享年は不明。
おおむね50代の後半ごろであったのではないかと推定されます。
それにしても、なぜ信長は、水野信元に死を命じたのか?
なぜ信元は処刑されたのか
24万石とも言われる強大な水野氏の当主。
その信元を死に追いやった信長の意図は何だったのか。
通説を参考にすると、おおむね以下のようになります。
水野信元の死【通説】
・信元は、岩付城攻めの際に『敵に内通して食料を届けていた』という疑いをかけられた
・佐久間信盛が、信元の失脚を目論んで信長に告げ口
・怒り心頭となった信長が、使者を遣わして信元を追及する
・信元もあわてて使者を派遣したが、彼らの放った二人の使者が泥酔の末に切りあってしまい、双方が死亡するという事態に発展
・信元は申し開きができなくなり、処刑に結びついた
これだけ見ると「史実とはほど遠い通説にありがちな処刑理由だな」と思ってしまうかもしれません。「佐久間信盛が讒言した」とか「使者同士が切り合いになった」なんて、いかにもな設定です。
しかし「武田氏に通じた」という疑惑については、あながち的外れでもないと指摘されています。
なぜなら武田信玄は、西上作戦に際して非常に広範囲の勢力へ調略を仕掛けており、強大な力を有した信元がその対象から外れたとは思えないからです。
信元の部隊は【三方ヶ原の戦い】でほとんど無傷でもあった。
そこに「兵糧にまつわる不審な噂」が重なり、斬るという決断になった――というのは確かに筋が通っています。
それと、もう一つ。
水野信元が織田と徳川の間にいて、しかも24万石もの強大な勢力を有していたのも、信長の警戒心を揺さぶったのではないでしょうか。
「信長に服属した武将が、しだいに冷遇されて最後は言いがかり気味の理由で殺される」というケースは他にもあり、勢力拡大の過程で信元の存在が邪魔になったというのは十分に考えられます。
同時に、家康にしても、アタマの上がりにくい伯父とその家臣団が近隣にいてはやりづらかった可能性もあるでしょう。
実際、水野信元が亡くなってからも水野家は消滅しておりません。
弟・水野忠重が後に家を継ぎ、その息子・水野勝成(信元の甥で家康の従兄弟)へと引き継がれ、江戸幕府で重要な役割を果たしているのです。
家康の従兄弟・水野勝成は戦国最強候補?全国を流浪した傾奇者の生涯
続きを見る
水野勝成は無類の強さを誇った「暴れん坊」として有名で、若きころ、父・忠重の怒りを買って家を「奉公構(破門のこと)」にされ、流浪の身にありながら豊臣秀吉や加藤清正、黒田長政のもとを渡り歩く傭兵として活躍。
水野家に戻ったのちは西国の押さえとして初代・福山藩主に任じられ、名君として親しまれることになりました。
ちなみに【天保の改革】で知られる水野忠邦は、純然たる水野家の血筋ではなく、元を辿れば浅野家から出ています(ただし、家康の血も入っている)。
あわせて読みたい関連記事
織田信長の天下統一はやはりケタ違い!生誕から本能寺までの生涯49年を振り返る
続きを見る
徳川家康はなぜ天下人になれたのか?人質時代から荒波に揉まれた生涯75年
続きを見る
家康の従兄弟・水野勝成は戦国最強候補?全国を流浪した傾奇者の生涯
続きを見る
土井利勝は家康の隠し子?参勤交代や寛永通宝など江戸時代の基礎を作った功績
続きを見る
家康の母「於大の方」はなぜ出産後すぐに離縁となった?75年の生涯
続きを見る
謎の死を遂げた家康の父・松平広忠~織田と今川に挟まれた苦悩の24年を振り返る
続きを見る
文:とーじん
【参考文献】
国史大辞典
谷口克広『織田信長家臣人名辞典(吉川弘文館)』(→amazon)
谷口克広『信長と消えた家臣たち(中央公論新社)』(→amazon)
大石泰史『今川義元 (中世関東武士の研究27)』(→amazon)