寛永21年(1644年)7月10日は土井利勝の命日です。
徳川ファンにとっては、ある意味定番のネタで、この方の話題となると「ああ、徳川家康の隠し子ね」という展開になりがちです。
優秀であるにもかかわらずあまり正当な評価がされていないような気がします。
そこで今回は、彼がどんなことをやった人なのかを中心に見ていきましょう。
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土井利勝は家康母方のイトコだが
そもそも土井利勝は、徳川家康の従兄弟です。
家康の母・於大の方。
その兄である水野信元の子供で、最近の大河ドラマだと『どうする家康』で寺島進さんが演じられてましたね。
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つまり、家康と似ているところがあっても別段おかしなことではありません。
歳が離れているので、従兄弟同士というイメージもあまりないですけどね。
その信元が武田信玄と通じた――という疑いで織田信長に睨まれ、家康はこの伯父を処分せざるを得なくなりました。
佐久間信盛が伝えて信長が怒り、家康が石川数正と平岩親吉に命じて水野信元を殺害させたのです。
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ところが、です。
利勝は一命を助けられるばかりか、家康の命で徳川家臣・土井利昌の養子に入ることになりました。
なお、後年、信長が佐久間信盛を追放したとき、信元が無罪だったのを後悔して、水野忠重に刈谷城を持たせています。
家康母方の実家だけに割と安泰だったのかと思いきや、水野一族もなかなか波乱万丈の展開を生き残ってきたんですね。まぁ、戦国時代ですから当たり前ではあるんですが……。
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鷹狩りに連れて行ったり 秀忠の傅役に任命したり
なぜ土井利勝は、家康家臣の土井家に養子入りしたのか?
普通こういう時って息子も処分もしくはお寺に入れるのがセオリーですから、確かにアヤシイといえばアヤシイですね。
ついでに、このあたりから家康は土井利勝を別格扱いし始めます。
鷹狩りに連れて行ったり。
6歳しか歳の変わらない徳川秀忠の傅役に任命したり。
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「本人の実子だから甘くしたんだよ」と言われても仕方のない扱いになりました。
家康は、実の息子を軒並みひいきしていたわけではないですから、それもどうよという気がしますが。
土井利勝は家康の期待によく応えたようで、関ヶ原の戦いでも秀忠隊につけられています。
例の大遅刻の現場に居合わせたわけですから当然戦功もほとんどないのですが、なぜか500石加増されました。お駄賃なのか。
その後も下総・小見川藩主に任じられたのを皮切りに、どんどん所領を増やされていきます。
ただ、利勝はそれにふさわしい働き方もしていたのです。
この頃になるとほとんど戦もないので、その功績は概ね事務処理やいざこざの仲介など地味なもの。
時は、戦国の気風が根強く残る江戸時代初期です。
そうした仕事が過小評価されたのと同時に「利勝は家康の子供だから特別扱いされているに違いない」という考え方をする人が一定数いてもおかしくはありません。
利勝自身は落胤扱いされるのを毛嫌いしていたといいますから、面と向かって言う人はそうそういなかったでしょうけどね。
しかし、そうなると余計に陰口を叩く人は増えるものですから、良かったやら悪かったやら。
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