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【土井利勝】
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家光が三代将軍になった頃には14万石超え
上述の通り土井利勝は秀忠よりも年上です。
秀忠がその重責からか早くに体調を崩していたため、利勝は徳川家光の傅役にも任じられました。
将軍二人の傅役を任された人というのもおそらく利勝くらいのものでは?
やがて家康の代からの重臣・本多正純が諸々のポカを重ねて失脚すると、利勝は名実共に幕閣の筆頭に昇格。
家光が将軍位についたときには14万石超の所領も持っており、もはやその権勢は揺るぎないものになっていました。
元々、武家諸法度内にはなかった参勤交代を定着させたり、寛永通宝を作って貨幣制度を安定させたのも利勝です。
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江戸時代の基盤を作ったといっても過言ではないわけですね。
そりゃ幼少からの特別扱いに加えてこの出世振りでは、「家康の息子だから」って言われるのも仕方ないですわな。
しかし、利勝はただ地位に胡坐をかいたり威張りくさるような人ではありませんでした。
大変実直で、見掛け倒しやごまかしを嫌ったといわれています。それを示すエピソードとして、徳川家光時代にこんな話があります。
政宗に一杯くわせて(飲ませて)酔い潰す
あるとき家光が徳川家の菩提寺・上野増上寺に行ったとき、お寺の壁に一部壊れているところがあるのを見つけました。
家光は”知恵伊豆”こと松平信綱に修繕を命じますが、
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構造上そこは修理するのが難しいということがわかります。
そこで信綱が、ちょっとした細工で修繕したように見せようとすると、利勝は「そのようなごまかしは姑息である。できないならば正直にそう報告せよ!」と信綱を叱りつけたのだとか。
年長かつ立場も上ながら、こういう叱り方はなかなかできるものではありませんよね。
また、将軍の付き添いであちこちに出かけることもよくあったらしく、伊達政宗の屋敷を訪れた際には酔って悪ふざけをしだした政宗に一杯くわせて(飲ませて)、酔い潰してその場を丸く治めたとか。
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ちなみにそのとき、同僚の酒井忠世は政宗に膝枕を強要されて困り果てていました。
そんな天衣無縫な政宗を……利勝さんパネエ。そういう機転も利いたからこそ、政敵も少なかったんでしょうね。
性格や思考までそっくりだったらぐうの音も出ませんが、こういうところを見ると個人的にはやっぱり落胤じゃないんでは?と思います。最近は落胤説のほうが有力視されているようですけども。
ちなみに膝枕をした独眼竜の無礼は、家光も「政宗なら仕方がない」の一言で笑って済ませたそうです。
さすが、だw
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本「徳川15代 歴代将軍と幕閣」』(→amazon)
歴史読本編集部『歴史読本「徳川15代将軍職継承の謎」』(→amazon)
土井利勝/Wikipedia