慶長二年(1597年)7月9日、穂井田元清(ほいだもときよ)が亡くなりました。
この方は毛利元就という、戦国超ビッグネームの四男ですが、かなりの戦国ファンにしか知られていない存在かと思われます。
なんと言っても毛利家は
長男・毛利隆元
二男・吉川元春
三男・小早川隆景
上記、三本の矢が有名であり、四男以下については元就が「虫けら」だなんて怖いことも言っているほどです。
しかし、天下の謀将の息子がそんな凡将以下の人物になるワケもなく、穂井田元清も結構な活躍をしております。
本稿では、その軌跡を見てまいりましょう。
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「虫けらのような分別のない子供たち」って!?
穂井田元清は、三矢の教えの元ネタとなった『三子教訓状』の中で、元就に「虫けらのような分別のない子供たち」とボロクソに言われていたうちの一人です。
でも、この書状が書かれたときってその子たちまだ年齢一ケタ。
そんな小さな子をさほどに罵るってのもどうなのよ? という気がしなくもありません。
ただし、単になじるというよりは、
「最初の正室・妙玖の子である毛利隆元・吉川元春・小早川隆景(三本の矢)と、側室や継室の産んだ子供を区別するためだった」
とも言われていて、それなりに気も使ってます。
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なんせ「虫けら」の後には「もしそれなりの出来になったとしたら、遠方にでも領地をやってくれ」といったことも書いています。
宇喜多や秀吉との戦いに参加
実際、稀代の謀将・元就の子がそんなアホなわけはありませんでした。
元清は立派に成長。
元就の後半生から豊臣秀吉の時代にかけて、毛利家を陰になり日向になって支えました。
元就が九州に手を出したときには、毛利領の東端・備中(現在の岡山県西部)で宇喜多直家に攻め取られた城を奪い返す活躍も見せています。
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また、その翌年である永禄十二年(1569年)には九州に同行し、数々の戦いに参加したかと思えば、年の内に備中へ戻っています。忙しいですね。
一旦は負けてしまったのですが、数年後には見事挽回しています。
その後も宇喜多家との戦いに参加していましたが、織田信長の命で豊臣秀吉による中国攻めが始まると、今度は秀吉と戦うことになりました。
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このときは、秀吉軍に包囲された味方を、自ら兵を率いて救出するなどの活躍をしております。
主家であり実家である毛利家が秀吉に従うことになった後は、元清も素直に臣従しています。
四国及び九州征伐に参加し、日頃の忠勤を輝元からも評価されて、1万2000石の領地をもらいました。
また、吉川元春や小早川隆景が他の家として毛利家を支える立場であったのに対し、
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元清は「血縁のある家臣」として毛利家の家老といった立ち位置になっていたようです。
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