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【穂井田元清】
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息子も慶長の役で毛利の総大将!
朝鮮の役前半戦・文禄の役では、病身の輝元に代わって毛利軍の総大将を務めるほどですから、やはり日頃から信頼されていたのでしょう。
後半戦である慶長の役では、元清の息子・毛利秀元がやはり毛利輝元の代理として総大将をやっています。
親子揃って確実に元就の血を引いていることがよくわかりますね。
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ところで、朝鮮の役って休戦期間を含むとだいたい6年くらいやってたんですけども、輝元はいったい何年間闘病してたんでしょうね。
もしかして、元清が「生きて帰って来られるかわからないところに輝元様を送るわけにはいかないから、病気ということにして、代わりに私が行きましょう」とか言ってたんでしょうか。
日頃から母や弟たちのことを気遣うやさしい人だったそうなので、いかにもありそうな話です。
元就は息子より孫の心配をしたほうが良かったんじゃないですかね……(ボソッ)。
しかし慣れない土地で頑張りすぎたせいか、帰国後の元清は程なくして床についてしまいます。
ちょうど異母兄・小早川隆景も病がちになっていて「どちらが先にこの世をお暇するだろうな」なんて話をしていたとか。
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隆景とは元就存命中から共に兵を動かすことも多かったので、昔語りに花を咲かせることもあったのでしょうね。泣ける。
お金の計算については別の兄弟がお得意科目
元就の側室の子供の中には、元清の他にも一廉の人物がいます。
二宮就辰(なりとき)という人で、元就の正室が病みついていた頃に生まれたため、しばらくの間、毛利の血を引くことを隠されていました。
身分や立ち居地としては元清と同じになるはずが、そうした事情のせいで出生年や誕生日がはっきりしていません。
しかし、能力としてはやはり元就の息子。
特にお金を工面することについては大いに才能を発揮し、広島城築城に際しての資金繰りでは、検地その他あらゆる手段を講じました。
広島城については、秀吉に翻意のないことを示すために、築城予定地にわざと地盤の良くないところを選んだともいわれており、余計お金がかかったという説がありますね。
現場監督は元清と就辰二人でやっていて、これを知っていたからこそ何が何でもお金を集めたのでしょう。多分。
毛利家は現在まで血筋が続いている大名家の一つですが、実は途中から元清の系統になっています。
輝元の子孫が断絶してしまったので、元清の子孫が本家に入って跡を継いだのです。
つまり、元就の血が今も確実に残っていることになるわけですね。
今頃、元就はあの世で息子に「毛利の血を残してくれてありがとうよ。虫けらとか書いてごめんな(´・ω・`)」とか言ってるかもしれませんねえ。
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長月 七紀・記
【参考】
国史大辞典
峰岸純夫/片桐昭彦『戦国武将合戦事典』(→amazon)
歴史群像編集部『【全国版】戦国時代人物事典』(→amazon)
穂井田元清/wikipedia
二宮就辰/wikipedia